白の勇気

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「いってきます!」  六時五十五分。朝ごはんを食べろと怒る母親の言葉を無視し、俺はずっしりと重たい鞄を掴むと、玄関のドアを勢いよく開いた。  朝日が眩しい。梅雨時期の晴天は、必要以上に太陽の光が強い気がする。でも、こんなことに怯んではいられない。七時十四分の急行に間に合わなくてはならないのだ。俺は全速力で住宅街を駆け抜ける。  途中、ゴミ出しをしている近所のおばちゃんに「今日も早いわね」と声を掛けられた。他にいるのは冴えない顔をしたサラリーマンくらいで、俺のような高校生は一人も見かけない。そりゃそうだ。俺だって、遅刻すれすれだから走っている訳ではない。今日だって、朝ごはん食べてからでも学校には十分に間に合う。  それでもこんな急いでいるのは、勿論他に目的があるからだ。誰にも話していない、俺だけの秘密が。  七時五分。頑張って走ったお蔭か、いつもより早く駅に着いた。都心から離れたベッドタウンにある駅だけあって、改札は沢山のスーツで溢れていた。俺は息を整えながら、その波に入る。  改札で定期をタッチし、一つしかない階段を下りながらチラチラと周りを見渡す。サラリーマンたちのスーツは一様にダーク系の色で、それは俺にとって好都合である。「彼女」は、いつも明るい色の服を着ている。  視線を左右に振っていた俺は、階段から少し離れた、ベンチ辺りの列でピタリと留めた。視線の先には淡い白のスーツを着た女性。 いた。……彼女だ。  俺の秘密。俺の目的。それは彼女だ。馬鹿みたいだけど、電車通学を始めたこの四月から、彼女に会いたくてこの時間に駅に来ている。十四分の急行に乗るのは彼女だ。彼女は上りへ通勤。俺は下りへ通学。彼女の姿を見られるのは、駅のホームにいる数分間だけだ。  名前は勿論知らない。年は二十代半ばだろうか。卵型の輪郭に大きな瞳の彼女は、いつも戦場へ向かうかのような張りつめた表情で口を一文字に結んでいる。明るい色の服装と、幼く見える顔立ちと、その表情のアンバランスさに俺はいつも惹かれてしまう。多分これって、一目惚れ、ってやつなんだろうな。  話し掛けたことも勿論ない。高校生のクソガキに、一体何を言えるだろうか。見つめることだってできない。一瞬チラ見して、後は彼女の列の真反対、下り電車の列に並ぶだけだ。同じ空間にいる、と考えるだけで精いっぱい。女々しいけれど、それが俺の現実だ。
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