1 preludio

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 大学教授というよりは近所の商店街の店先で見かけそうな、温和で人好きのする中年教授が手を叩く。碧生はふぅ、と一息ついて、伸びすぎた前髪をかき分けた。 「ありがとうございます」 「高音がすごく綺麗に表現出来ているね。低音はまだ少し荒いから、もっと細かく刻むように意識して」 「はい」  この音楽大学でピアノを専攻するようになってもうすぐ三年になる。定期試験も終えたばかりで、ストレスなく素直にピアノに向かうことができていた。 「しかしまぁ、さすがは神崎善生(よしき)の孫というべきか。ピアノを弾いている君は何者の追随も許さないというように気高い」 「……買いかぶりです」  碧生は端整な顔をわずかに歪めて笑った。  祖父は高名な作曲家。父は一流楽団の指揮者。母はピアニストで兄は有名楽団のヴァイオリニスト。絵に描いたような音楽一家に生まれた碧生にとって、ピアノは生き甲斐でもあり、プレッシャーでもある。  時折何もかもから逃げてしまいたいと思うこともないわけではない。ピアノも音楽も何もかも捨てて、普通の人生を歩んでみたい、と。それでもこうして有名音楽大学でピアノ科にしがみついているのは、ピアノのない自分など考えられないからだった。 「譜面を追う正確さと再現率の高さは、学生でここまで出来るのは君くらいだろう。まあ、ひとつ言うことがあるとすれば――」     
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