1 preludio

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 賛辞からトーンが切り替わったことに気づき、体が強張る。今回の曲はかなり練習した。低音の荒さは自覚があったので今後改善していくとして、他に何が。表情を硬くした碧生に、教授は困ったように眉を八の字にした。 「その演奏に『君』はいるのかい?」  その言葉の主旨を正確すぎるほどに碧生は把握した。  しばし、沈黙が落ちる。その質問の答えならはっきりと定まっている。しかし、それを口にする勇気は今の碧生にはない。碧生に答える意志がないことを見てとると、教授はひとつ大きな溜め息をついた。それは張り詰めた沈黙の終わりを意味する。 「今日はもうこれで終わっていいよ。次はまた金曜日のこの時間にね。なんでもいいからリストの他のやつ練習してきて」 「ありがとうございました」  楽譜を鞄に仕舞いこむ時間も惜しい。分厚いそれを片手に抱えたまま一礼して、練習室を辞した。  ――その演奏に『君』はいるのかい?  先ほどの言葉が頭の中でリフレインする。  教授の言った『いる』は、他の生徒なら『要る』という意味だと解釈しそうだが、碧生には分かっていた。その意図は、『居る』だ。  碧生の演奏は楽譜をいかに忠実に再現するかに尽きる。そのことではこの大学内で、いや、日本中の音大の中でだって追随を許さない自信がある。     
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