アンダンテ

８ soupir

　テンポ・ジュスト・ヴィヴァーチェ。からのモルト・スタッカート。オクターブ上がってピアニシモ。機械が決まったところに部品を差し込むように、決まったところで決まったように弾く。自らの指が白黒の盤上を滑るのを、碧生は初めて目視した。ピアノを十八年間続けていて、初めてだ。
「……はは、機械、か」
　まさにその通りだ。この演奏のどこにも、神崎碧生は居ない。それはあくまでも厳格に『リストのハンガリー狂詩曲』であって、神崎碧生の演奏ではなかった。幼い頃に自分を天才ピアニストの誕生だなんて評したのは誰だったろうと自虐的に笑う。
　もう一音も弾けなかった。
　蓋を閉めたグランドピアノの上に、頭を載せてもたれかかる。当たり前のように生活に溶け込んでいたピアノのはずなのに、こんな風に身体を預けるのははじめてだった。
　日が高い。まだ昼間だ。あと十時間は練習できるはずなのに、ぴくりとも指先が動かなかった。
　磨き上げられた黒い鍵盤蓋に、ひとつ雫が落ちる。
「……ふ」
　漏れ出た声は嗚咽だったか自嘲だったか。一度堰を切ったそれは止まらなかった。次から次へと溢れ出ては、黒光りする板に水溜りを作る。