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 細い指が白い鍵盤の上を滑る。重さなど感じていないかのように軽やかに踊っては、小気味のよいトリルを刻む。高音から低音へ。白鍵から黒鍵へ。よどみなく動く指とは裏腹に、その瞳は一切鍵盤を見ていない。理想を絵に描いたような美しい形の瞳は、磨き上げられたグランドピアノの屋根をぼんやりと映している。  入りはピアニッシモ、アレグレット。音が震えないように、けれど深すぎないように絶妙な加減で指を離す。センプレ・マルカート。どの音も主張しすぎないように、かといって消え入らないように。アクセントのついた音は全て頭に入っている。逃さずひとつひとつ強調をつけてやると、それだけでぐっと曲に深みが増す。左手のクレッシェンド。ポコ・リタルダンド。そしてディミヌエンド。台本をなぞるように脳内で指示を出す。無駄のないその運指は的確に譜面を再生した。  中盤を過ぎてフォルテシモ。鐘の音のような澄んだ高音が、練習室の窓の向こう、早春の渇いた空に高らかに響く。やがて最後の和音を深く刻み込み、神崎碧生(かんざき あおい)は初めて鍵盤を目視した。憑き物が落ちたように覇気のない顔が譜台の黒に反射していた。 「いやいや、結構結構」     
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