第二十六章 鈴木實⑫

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 角田中尉から報告を受けた鈴木さんは、 「こっちが固唾(かたず)を呑んで待ち構えているのに、のんびりしてやがるなあ」  と、思わず苦笑いした。  中国軍の占領方針は、蒋介石の「怨みに報いるに徳を以ってせん(「以徳報怨」老子)」の言葉どおり、旧怨を感じさせない紳士的かつ穏やかなものであった。  宿舎が収容所と名を変えただけで、中国軍による監視もない。日本軍将兵は最後まで帯刀を許され、階級章もつけたまま、互いを呼び合うときも官職名のままだった。これまでと同じように、自由に外出することもできた。  鈴木さんは九月五日付で中佐に進級していたが、中国軍からも中佐の階級そのままの待遇を受け、中国空軍司令官・張柏壽中将の隣室に私室を与えられ、運転手つきの黒塗りの専用車をあてがわれた。その車を使って、毎晩のように台中の日本料亭に入り浸っても、何の咎(とが)めもなかった。  あるとき、張中将が、出かけようとする鈴木さんを、通訳を介して呼び止めた。 「貴官は夕刻になると宿舎から消えるが、いったいどこへ行っているのか」 「空が飛べなければ、私には酒を飲むしか楽しみがない。退屈でしようがないから、日本料理屋で敗戦のやけ酒を飲んでいる」
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