05.もう、だれのことも好きになんてならない

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05.もう、だれのことも好きになんてならない

烏羽奈音は自分の中学時代をふりかえることはしなかった。そもそもいい思い出ではない。あのころ、もう結構だと感じるくらいに身長は伸びつづけたけれど、なかなか声が変わらずに幼いままだった。 発声することはおそろしかった。とくに女子の前では。たまに焦ってうわずった声でも出そうものならば、理由のわからない笑いが返ってくる。どうしたってポジティブにとらえることなどできないから、うつむいてただ赤くなる。 当時コンプレックスは多かった。成績はつねにトップでも、それは体育以外の話。よほどの進学校なら違ったのかもしれないが、中学生とはだいたい勉強よりも運動ができる男子のほうがカースト上位にいる。いじめられることはなかったが、ただの目立たないやつとして自分の席で本を読んでいた。 中学二年生に進級した日、クラス発表の看板の前に群がることをしなかった。身長が高い自分があの場にいては迷惑になるだけだと思ったし、なによりそんなことをしなくても、そこでおなじ内容のプリントを配布している。 出席番号はいつも早かったから見つけやすかった。今年はB組だ。そしてつい、小学校からの幼馴染の名前を探してしまう。城二千聖はおなじクラスだった。 すこしでも知っている人間がいると安心する。あたらしい教室で、出席番号順にふられた席につくと、自分は教室の端。城二は真ん中あたり。今年は「うば」の前にひとりいるらしい。 やがてその席についたのは小柄な女子だった。緊張しているようでやや動作がかたい。新学期にあわせたのか、ショートボブの後ろ姿は切りたてでととのっている。セーラー服の襟だけ眺めて、すぐに視線を手元に落とした。 昨日読みはじめた小説のつづきが気になっていた。文庫本のあいだからしおりを抜き取ると、城二のいる席のあたりから笑い声がした。振り返ることはしなかったが、人があつまっているのはわかる。彼は友達が多いのだ。 一瞬でも、彼とおなじクラスになって安心したことがばからしくなった。 やたらと配布物が多いことは覚悟していたが、あたらしい担任の手にはすさまじい量のプリントが積まれていた。 それがひと束ずつ、一番前の席に配られていく。烏羽は前の席からそれを受け取る。彼女が振り返るたび、やや内巻きになった毛先がふわふわ揺れた。うっかりプリントを取り落としでもすれば情けないから、受け渡しは慎重におこなった。「ごめん」と言いたくなかったのだ。 しかしそそっかしいのは前の席の彼女のほうで、わなわなふるえる手でプリントをさばいたのちに、それをうっかり烏羽の机にばらまいてしまった。 「えっ? ご、ごめんなさい」 ひどく焦った声で、彼女はプリントをかきあつめる。それから端をきれいにととのえて回してくれたが、そのうちに彼女の机にはあたらしいプリントがどんどん積まれていた。遅れをとりもどすつもりで急げば急ぐほどその指さばきがあやふやになるので、しかたなく手伝うことになってしまった。 「ごめんね、ほんとうに」 「いや、いい」 その言いかたがあまりにもそっけなかったせいで、これは印象最悪できらわれただろうなと思った。事実、それ以降彼女は涙でもこぼしそうに悲しい顔になってしまった。好いてもらいたい理由などないが、きらわれたい理由もないから単純にさみしい。しかし正直、ここで失敗したのが自分のほうではなくてよかったという気持ちのほうが大きかった。 ホームルームは午前中で終わった。かばんの中身を整理して、このあと寄るつもりでいる古書店のことなど考えていると、不意に前の席の彼女が振り返ってきた。しかも椅子ごと。 「うばくん」 おどろいた。中学にあがってからというもの、女子にまともに名前を呼ばれたことなどなかった。 「って、読むんだよね。違ってたらごめん」 「いや、あってる」 「そっか。よかった。さっきはありがとう」 視線をあわせてくれないから、いちどだけ彼女の顔を見た。目が泳いでいるというより、よく動いている。顔を赤くして、なにかとても必死のようだ。自分に対してこんなふうに話しかけてきた生徒などほとんどいなかったから、ただ唖然とした。 「いや、いい」 また、そっけない返事をしてしまう。なのに彼女は「よかった」なんて言って笑う。 「今日はへんに緊張しちゃって。でも不器用だから、またやっちゃうかも。あ、わたし、青葉です」 それがふだん自分の思っていた「女子の自己紹介」とはおよそかけ離れていたせいで、つい笑ってしまった。そしてすぐにだまった。また、へんな声になっていたかもしれない。 「あーあ、よかった。笑ってもらえて。明日からよろしくね」 プリントを落として大慌てしていたときとは別人のように、よく笑う子だった。しかしほかの女子がするような「理由のわからない笑い」ではない。彼女はさらりと手を振って教室を出ていった。 青葉りか。クラス発表のプリントをひきずり出し、つい下の名前を確認してしまったけれど、忘れたほうがいい気がした。きっと今後呼ぶことはない。 「おはよう、うばくん。なんの本読んでるの」 つぎの日、朝一発目から、青葉りかは椅子ごとふりかえってきた。 いままでそんな質問をされたことはない。そもそもこんな地味なやつが読んでいる本に、だれも興味を示さなかった。それでも毎回本にカバーをかけているのは、他人になにを読んでいるのか見られたくないからだ。へんなところで他人の目を意識している自分がいやになる。 「それ、教えなきゃだめ?」 「え、見られたらはずかしいようなもの読んでるの」 そういうわけではない。だが、わざわざカバーをかけている理由を考えてほしい。そう思いながらも、はずかしい本ではないことを証明するためにページを巻頭までめくってタイトルを見せた。昨日、帰りに古書店で買ったばかりの文学作品だった。 「へえ、聞いたことない。おもしろい?」 「それなりに」 「そっかあ。あ、ごめんね。じゃましちゃって」 青葉りかは前に向き直る。こちらがまたそっけない返事をしてしまったせいだろうか。しかしこういうときに返せる、ユニークな言葉を持ち合わせていなかった。 小説のつづきは頭にはいってこない。視線がおなじ行をなんども追ってはもどっている。 「ね、うばくん」 ショートボブの髪の毛が、また目の前で揺れた。 「それ、読み終わったら貸してほしいな」 「いいけど、なんで」 「うばくんがなに考えてるのか、わかるかと思って」 そんなことを理解してどうしたいのかわからない。 しかしその日、休み時間のうちに本を読み終えて、放課後には彼女に渡した。内容はまったくおぼえていない。理解できるだけの気力がなかった。結局そんなものを彼女はどう処理したのだろう。 一週間かかって、青葉りかはようやく本を返却してきた。 「すこしむずかしいね。でも、おもしろかった」 そう、としか言えなかった。自分のことをほめてくれているわけでもなかったけれど、うれしかった。 烏羽は中学時代をふりかえることはしない。そのくせ、覚えていたくないようなことはきっちり頭にこびりついているし、忘れられないようなできごとでも意外と思い出せなかったりする。 青葉りかの言葉が、頭のなかでいいように捏造されている可能性だってあるけれど、それはそれで問題ない。思い出してなにもかもがつらいより、よほどいい。 「うばくん! 上の棚にある本、取ってくれない?」 あの日、なぜ彼女とふたりで学校の図書室に行ったかは忘れてしまった。ただ外では強く雨が降っていて、湿った空気を冷房の風がかき乱していた。図書室は古い紙の匂いがいつもより重たく感じられ、それが室内の静けさにとけこんでひどく心地よかった。 「なんで? そこに踏み台あるけど」 「うばくんに取ってもらいたいの」 理由も意図もわからなかったが、だまって本を取ってあげた。ありがとう。自分より頭ひとつぶんもちいさな女の子が、こちらを見上げて笑うすがたは直視できない。 そのとき渡した本はなんというタイトルだっただろうか。彼女が読みたがるような本を読めば自分も彼女の考えていることがわかるかと思ったけれど、自分が本にカバーをかけるように、それもまた彼女にとっては見られたくないものであるような気がした。 思えば、タイトルを見る権利くらいはあったはずだ。結局それを知ろうとしなかったことを、なぜか後悔している。 雨の日の図書館は、そんな記憶の底に沈殿しているような、色もかたちもあやふやなものが不意に浮かび上がってくる。湿った紙の匂い。薄い服の上に感じる冷房の温度。 大学生になり、声が低くなったいまでも、そんな「あやふや」を清算しきれていない。むしろそれは、思い出すたびに自我の上にうすく刷毛で塗り重ねられていくような気がしていた。 憂鬱だ。なぜ憂鬱かって、その記憶にはかならず、青葉りかと城二千聖が手を繋いで歩くシーンがセットになってくるからである。 だれとだれがつきあっていて、あいつとこいつがこないだ別れて、こいつはあいつを好きで。それは日常茶飯事だったけれど、こんなに狭い世間でよくくりかえしそんなことができたものだ。なにがどうしてそうなったかって、あーあ。思い出せない、思い出せないったらありゃしない。 ただでさえ、最近はいらいらしている。バイト先に新しく入ってきたスタッフのことがなんだか気に入らなかった。自分よりもちいさいくせに、あれやこれやと一生懸命になるすがたは、なんだか直視できない。そいつが笑うたびに、胸がざわざわして、腹が立つ。 今日は本を二、三冊借りて、さっさと帰るつもりでいた。なのに今日に限って、こういうのに遭遇してしまうわけである。 「なんだあれ」 思いきり爪先立ちをして手を高く伸ばして、そのまま固まっているチビ。高い位置にある本を取りたがっているらしいが、もうちょっとほかになかったのだろうか。 あきれて、ついでにかわいそうになってしまって、うっかり後ろから近づいてその本を取ってやった。 取るついでに、背表紙を盗み見る。 『紅茶の基礎知識』 そういえばこういう本、あいつは好きそうだ。人間、好きな相手より嫌いな相手のことをつい考えてしまうようで、気づけばそいつが常に頭のなかにいるのは、こう、すごく、いやだ。 「げ、チビオ」 うそだろ、という言葉はあわてて舌の裏に隠す。手を伸ばして固まっていたチビはなんと、いま自分が一番嫌いなチビだった。 偶然、狭い世間、運命、腐れ縁、引き寄せ、いろんな言葉が湧き出してくるのを、まばたき二回で消し去った。ずっとずっと、嫌いだ嫌いだ、会いたくないなんて思っていながら、こうして実際目の前にあらわれるとふしぎに胸がざわついて、摩擦で痒い。 なにか言葉を交わしたような気がするけれど、またきっと失礼なことを言ってしまったと思う。 「本、取ってくれてありがとうございました。じゃあ、またお店で」 堂島リゼはややむっとしたままで去っていってしまった。でもこれでいいのだ。俺は傷つきたくない。 もう、だれのことも好きになんてならない。18966f83-94fe-4079-9bce-187afcc8ceac
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