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06.どうか、杞憂であれ
「ボンソワール雄貴ー。さっそくだけどさあ、なにあのお茶」
佐原はそのひとことを背中に受けただけで、すべてを察した。状況を三つにまとめるとこうである。
ひとつ。サロン・ド・テ・プランタンのオーナーであり、実兄である恵里谷伽藍が、閉店後の店を訪ねてきたこと。
ふたつ。スタッフルームに置きっぱなしにしていた「スタッフティー」、ようは自分の失敗作を彼に味見されたこと。
みっつ。このあと説教される。
キッチンを片づけていた手を止めておそるおそる振り返ると、長い髪の毛を編みこんでおさげにした、美しい顔立ちの男がそこに立っていた。半分おなじ血が流れているわりに似ていないのは当然だ。中性的な雰囲気の恵里谷は彼の母親に、そして体格に恵まれて雄々しい顔立ちの佐原は、ふたりの父親の血を濃く受け継いでいるらしかった。
「兄貴、」
佐原がなにか用かと尋ねるより早く、恵里谷は人差し指を立てて左右に振る。まるでコメディアンがするような大仰なしぐさで。
「どうして強い香りと強い香りをぶつけちゃう? そのお茶の主役はだれなのか、ちゃーんと考えてつくってる? 香りというのは、お茶同士の調和をとるためのつなぎであり、そしてまたそのお茶を美しくデコレイトするお化粧なんだよ。お前のあのお茶は、調和どころか大戦争だ」
彼のアドバイスは的確だった。
それもそのはず、彼は自身の紅茶ブランドを持ち、そのすべての紅茶のブレンドを手がけている。みずからを「ティーデザイナー」と名乗る彼の実績は日本だけにとどまらず、海外でもその土地の文化に応じた紅茶をデザインしつづけている。最近はインドのダージリンの一角に茶園を買ったとかなんとか。
とにかくそんな紅茶のスペシャリストとしての彼に、さらに至極まっとうな指摘をされてはぐうの音も出ない。佐原はますます萎縮する。
それでも佐原は、彼のことを実業家として尊敬しているし、兄としてあこがれていた。ただし隠しきれないコンプレックスだけ、どう処理すべきか考えあぐねて今日までやってきた。
恵里谷家の長男として、フランス人の母とのあいだに産まれた伽藍。
伽藍の父親と、その屋敷に仕えていた使用人とのあいだに産まれた雄貴。
ふたりはおなじ屋敷内で、よい友達同士として兄弟のように育ったが、ほんとうに血の繋がった兄弟であったと知ったのは恵里谷家の当主が病で亡くなる直前であった。
夫が使用人の女とともに自分を裏切っていたことを知った美しいフランス人の女は、怒り狂った挙句にその女と子どもを追い出した。それまである程度裕福な生活を送っていた親子だったが、突然貧しい生活を強いられるようになる。それが佐原雄貴中学生のとき。
高校はバスケットボール部の強豪校にスポーツ推薦で入ることができた。若かった父親がバスケットボールの選手であったことを思い出すと、これは運命にも皮肉にも思えた。しかし高校受験で母親に負担をかけなくて済んだと安堵したのも束の間、彼女は病であっさり亡くなってしまう。
高校卒業後は、バイトをしながら料理学校に通った。幸いにも好きと得意が合致していたから、そこを伸ばしていこうと決めた。
恵里谷の屋敷にいたころは、紅茶が日常に染みついていた。
兄は即興で紅茶をブレンドし、あたらしいテイストを生み出す才能に長けていた。そのたびに父をおどろかせては、天才だと褒められていた。
自分もそんなふうに旦那様に頭を撫でてもらいたくて真似をしてみるものの、うまくいかない。どちらかというと厨房に出入りして、紅茶に合わせるフードをつくる手伝いをするほうが向いていた。十歳になるころにはすでにお抱えパティシエ顔負けのシフォンケーキをつくるようになっていて、ティータイムにあわせてお菓子をつくっては、ときどき旦那様から直接小遣いをもらうまでになった。
それでも兄のようになることをあきらめきれない。
たまにこっそりブレンドに挑戦していると、なぜかきまって兄に覗かれたものである。そのたびに「センスないね」と言われつづけた。なにもかも完璧な兄は、自分のコンプレックスをこれでもかと刺激した。
いま思うと、兄自身ではなく、父の愛情をひとりじめしていることがうらやましかったのかもしれない。
しかし、わからない。
それでも兄のことが大好きで、尊敬していて、このひとがほんとうに兄ならいいのにという願望があって、しかし事実を告げられた途端に関係がぎくしゃくしてしまって。そうしているうちに感情の整理が終わらないままで時間が経過しすぎてしまった。
ふたたび兄に会いたいと思うようになったのは、母親の火葬が終わって、妙にすっきりしてしまったその後だ。身内は自分しかいないから葬儀こそおこなわなかったが、それでも少なくはないお金が動く。
この歳で借金も視野に入れてはいた。その相談と払込も兼ねて銀行をおとずれると、窓口で印字の終わった通帳を受け取っておどろいた。兄の名義で多額の振込がされていたのだ。
会いたい。
ストレートな言葉がすぐに浮かんだ。兄に会いたい、会ってお礼を言いたい。
しかし彼に連絡を取る手立てはいまのところ手紙しかない。佐原はせっせとはがきに兄へのメッセージをしたためては、毎月ポストへ投函した。毎月送ることになったのは、いっこうにその返事がこないせいだった。おそらく佐原からの手紙というだけで、兄の目にふれる前に捨てられていたに違いなかった。
それが何ヶ月つづいただろうか。ある年の春、佐原が料理学校を卒業したのを見計らったかのように、兄のほうから手紙がとどいた。
街のはずれにあるちいさな喫茶店。佐原がひとりでつくテーブル席は妙にちいさく感じた。紅茶ではなくブラックコーヒーをすすり、兄を待った。
コーヒーがすっかりぬるくなってきたころ、わずかに入り口のあたりがざわめいて、兄が入ってきたのだと思った。
久しぶりに会った兄はその美しさを増していて、対面に座った彼は思い出のなかの彼とは別人のような気がした。なにより、あまりに妙な喋りかたをする。
「久しぶりだねえ。なんかすんごくおっきくなった? 男の成長期っていつまでだったっけねえ」
「兄貴はきれいだな、あいかわらず」
「そうだよねえ。ワタシ美しいの。しかし美しいことも、美しくありつづけることも、けっこーめんどくさいんだよねえ」
彼は佐原とおなじ、ブラックコーヒーを注文した。『ホットティー』か『アイスティー』の二択しかない紅茶のメニューには見向きもしなかった。
佐原は動揺したこころの整理がいまだにできず、ため息を喉の裏に隠した。子どものころ、いっしょに中庭を駆け回っていたときとは違う。今度は大人同士として、彼と接していかなければならないのだ。そのための準備ができていなかった。
「おや、雄貴のカップ空っぽじゃない」
なにげなく、でも数年ぶりに、名前を呼ばれた。その瞬間に胸の中のざわめきが一気にひろがって、ひろがった端からやわらかくとけていったのを感じた。兄がもう一杯おかわりを注文してくれていることを気にかける余裕もないまま、とけた感情が目からあふれてきた。
「あらあら、もう」
おどけた口調。しかしその声音には、わずかにいつかの影があった。恵里谷家の中庭で転んだ日、兄はポケットからハンカチを出してくれて、その膝小僧をやさしく覆ってくれた。
目の前の兄はやはりポケットにハンカチが入っていて、おもむろに取り出してはべたべたと雑に佐原の顔をなでまわす。そのたびにかえって涙があふれた。
「もういい大人なんだからさあ」
そうだ、大人だ。でも「いい大人」という表現は、いったいどの程度大人になってから使うのだろう。すくなくともこうされている間は、まだ子どもの心を手放していたくなかった。
その日のうちに紅茶専門店を経営する計画を告げられた。いきなり店長を任せられることに不安はあったが、誇らしかった。
「雄貴はうまくブレンドティーができたらどうしたいの」
恵里谷はキッチンの戸棚からビスケットを取り出すと、ひと袋開けてかじりついた。おそらく城二が隠し持っていて、業務中に腹が減ったときに食べるためのものだった。明日、減っていることがばれたらなにか言われるのは自分だが、佐原はだまっている。
「どうしたい、って。べつにどうしたいわけでもないけど」
「そう。ワタシにあこがれているだけなんだね」
直球で真実を突かれると、またなにも言えなくなる。キッチンの片づけに必死なふりをして手を動かすが、さきほどから無意味に道具を行ったり来たりさせている。
「残念だけど、絶対ワタシには追いつけないよ。だってワタシ、天才なんだもの」
「自分で言うかよ」
「事実だし、真実だし。また世間のみなさまもそうおっしゃるし。なにより舞いこんでくる仕事の数がものを言っている」
きっと彼はその仕事のすべてを完璧に、そしてスマートにこなしてしまうのだろう。いまの佐原にとってはそれがうらやましくもあり、悔しくもあった。
自分にもなにか突出した技能があるとするなら。
「雄貴はさあ、料理できるじゃない。ワタシが紅茶をつくる。雄貴が料理をつくる。それで店はバランスがとれているけど、それじゃだめなの」
「だめ、じゃないけど」
「めずらしく歯切れの悪い物言いをするねえ」
そう、これでいいはずなのだ。なのに目の前の兄に、必死に追いつこうとしている。それなのに手も届かない様子は、ジェット機を自転車で追いかけているような気分にさせる。紅茶に関しては、まだまだ未熟だ。
「どうしてワタシになろうとするの? ワタシにあこがれてどうしたいの」
それは、と佐原が口に出す前に、恵里谷がさえぎる。
「無理だよ雄貴。永遠にね」
それは絶対的な宣告にも聞こえた。大いなる存在の前に、力なき民は萎縮するしかない。血を分けた兄なのに。
「そういえば、あたらしいバイトが入ったそうじゃない? おもしろくてかわいい子だって聞いたけど」
この流れでその話題に触れられたことが、佐原にとってはおそろしかった。
恵里谷はつづけてビスケットをかじると、顔をのぞきこんでくる。「実際どうなの」と無言で訊いているようだ。佐原はしばらく視線を泳がせたあとで、そのとおりだと頷く。
「そうなんだー。会いたいなあ。かわいい子は大好き」
「言っとくが、男だぞ」
「ふーん。そのわりに、けっこう気に入ってるんだねえ」
「おもしろいやつを気に入るのに、男も女もないだろ」
へえ、と恵里谷は意味深な返事をして、またビスケットを噛み砕いた。
「ねえ、なんか紅茶ほしいんだけど」
「せっかく片づけたんだから、また今度にしてくれ」
「いーじゃん、また片づけたらさあ」
まだ居るつもりかと思ってうんざりしたが、結局逆らえずにケトルを火にかけた。茶葉はそのへんから適当にひっぱり出してきた。
しかし兄は、おいしいと言ってその紅茶を飲んだ。
それは素直に嬉しく、そしてやや申し訳ない気持ちになる。もうすこし、丁寧に茶葉を選べばよかったかなという気分にもなる。佐原はおなじポットから自分のカップにも紅茶をそそいで、ゆっくりと香りを吸いこんだ。
こうしているあいだだけは、羨望も劣等感も、なにもかもを忘れていられるのに。
「雄貴。お前のことは、ワタシがいちばんよくわかっているからね」
「俺は、兄貴のことがぜんぜんわかんねえ」
これでも昔は、ある程度わかっているつもりでいた。しかし大人になった兄は、どこかすりガラス一枚隔てたところで会話をしているような気がする。彼の言葉は、彼の真意の輪郭しかわからない。それは彼の故意ではなく、『天才』であるがゆえの雰囲気のせいかもしれなかった。
「おかしいなあ。言いたいことはすべて、はっきり言っているつもりだけどねえ」
「その裏の裏になにかあるだろ、兄貴の場合は」
「裏の裏は表じゃん。雄貴ってあれだよね、雑誌の袋とじを開けて中を見るのが怖いタイプ。表面だけ見て満足しちゃうでしょ」
そのたとえの意味不明さに眉根を寄せた。こういうところがまさに、思考の次元が違うと言っているのだが。
「よくわかんねえけど、袋とじをきれいに開けられたためしがねえよ」
「ただ不器用なだけじゃーん」
恵里谷は笑いながらティーカップをあおった。
烏羽くんはすごく几帳面に開けそう。朝宮くんは雑にやぶっちゃうかな。城二くんは開ける前から内容知ってそうだよね。
なんだかんだで従業員たちのこともよく見ていて、性格をよく理解していた。
「あたらしいバイトの子は、どんな開けかたをするんだろうねえ」
「恥ずかしがって、開けようとすらしないだろうよ」
「そうなんだ。かーわいー」
空になったカップをシンクに置いて、恵里谷は背を向けた。じゃあね、また来る。足音は階下へフェイドアウトして、やがてドアの閉まる音がして、ようやく静寂がおとずれる。嵐のようだった。
兄の存在はどこまでも完璧で、なにをして張り合ったところで勝ち目はないだろう。だからあこがれているしかない。しかしそのあこがれが、ときどきどうしようもない無念に変わるときがある。
この予感が的中しないでほしい。彼のことをなにもわからないと言ったくせに、こういうところばかりに勘がはたらくのは厄介だ。
どうか、杞憂であれ。
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