08.さて、忘れた。いま、忘れた。

1/1
168人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

08.さて、忘れた。いま、忘れた。

「馨さんのばか! あほ! インポ! 不幸になっちゃえ」 二階のサロンのほうから大声が聞こえてきたと思ったら、螺旋階段を一気にくだってひとりの少年が店を飛び出していった。 まだ幼さを残すその顔はぐずぐずに濡れていた。リゼは当然お帰りのご挨拶をする余裕もなく、ただ唖然と後ろ姿を見送った。 馨。馨……。どこかで聞いたことのあるような名前を反芻する。引き寄せられるように螺旋階段をのぼり、サロンの一角に座る男を確認すると、すぐに記憶と真実が結びついた。 「月ヶ瀬さん」 「やあ、リゼ。午後からのシフトだとは思わなかった。このまま会えないのかと不安になったよ」 「あの、さっきのお客様なんですけど」 言い方によっては気を悪くするかもしれない。言葉を続けられないままリゼが口ごもると、月ヶ瀬は察して申し訳なさそうに頷いた。 「ごめんね。僕の連れだ」 「そうでしたか。えっと、ほかのお客様のご迷惑になりますので、店内での揉めごとはちょっと」 「ほんとうに申し訳ない。お詫びにもう一杯、紅茶を注文するよ」 正直、リゼには彼が揉めごとを起こすような人物には見えなかった。それがあまりにも意外で、メニュー表を用意しながらすこし胸がざわついた。彼がだれかをともなって来店するのを見るのも初めてだった。 「メニュー表、お持ちしました。どうぞ」 つい自分の手元にばかり視線が流れる。そうしていると、メニュー表に置きっぱなしになっていた指に、月ヶ瀬の手がふれた。 「リゼ。僕の名誉のためにこれだけは言わせてほしい」 「はい?」 彼の台詞がいつもと変わらないトーンで淡々としているので、油断していた。 「僕は勃起不全じゃない」 「あのですね」 これはセクハラにあたるのか。 しかし彼があくまで真剣なので怒ることもできず、呆れることもできず、発言の意図もわからないままで「どうでもいいです」と一蹴してしまった。そもそも発言が場違いなのだから、これくらい許されるはずだ。 動揺を隠せないままで一歩さがった。 「お、お決まりのころに、まま、また来ますので」 「ああ、うん。変なことを言ってしまってごめんね」 「ほんとですよ」 「でも大切なことだからね。そうだ、つぎの紅茶はきみが選んでくれるかな」 今度は月ヶ瀬のほうから流してくれた。このひとは場の空気をシームレスに変えるのがうまい気がしている。 リゼもこれ以上この話題に触れたくないと気持ちを切り替え、今日の彼への紅茶を選びはじめた。 しかし、なぜだろう。いつも彼に喜んでもらいたくて一生懸命になれるのに、今日はなんだか考えがまとまらない。いじわるしたい。舌の燃え上がるような唐辛子のブレンドなんかあればいいのに。 「こちらはいかがですか? 『アールグレイ・インペリアル』」 それはこの店でいちばん高価なアールグレイだった。通常よく出るアールグレイの三倍ほどする。月ヶ瀬は値段を見て眉ひとつ動かさず、むしろリゼの意図に気づいた上で納得したようだ。 「いいね。ありがとう。アールグレイはこんな気分のときにこそ飲みたい。カヌレもつけてくれるかな」 「かしこまりました」 こんな気分って、どんな気分なんだろう。 それはわからなくても、彼はいつも自分のなかにあるルールにのっとって、自分のこころに処方箋を出しているような気がしていた。 紅茶をサーブする手が、初めて仕事をしたときのようにふるえている。 なんとかこぼさずに月ヶ瀬のカップへそそぎ終えると、気づかれないようにちいさく息をついてポットを置いた。 「ごめんね。その紅茶、そんなに残してしまって」 先ほどから見ないようにはしていたが、月ヶ瀬の対面の席には中身のすっかり冷めきったティーカップが置かれていた。きちんと飲まれることのなかった紅茶のすがたはリゼにとってせつない。ソーサーごとバッシングして、「いえ」とだけ返事をした。 「彼の口にはあわなかったみたいだね。メニューのなかから、一生懸命クリームソーダを探しているような子だったし」 「紅茶は嗜好品ですから、好みにあわなくて飲めないことがあっても当然だと思います。月ヶ瀬さんが謝ることではありませんよ」 「きみは気になる? 彼のこと」 「いえ……」 気にならない。知りたくもない。なのに否定する声がちいさくなる。 「最近知り合って、一方的になれなれしくされていただけの子だよ。寄せられている好意には気づいていたけど、応える気にはなれなかった。ほんとうにそれだけの相手だよ」 「それを、俺に聞かせてどうするんですか」 「すくなからず醜態をさらしてしまったからね。言い訳くらいさせて」 そうこぼした月ヶ瀬の苦笑いは、思いがけず幼くてかわいかった。 「ほんとうは今日、いつもみたいにひとりで来たかったんだ。でも一緒に来たいとしつこくて……。結局連れてきたらこれだ。迷惑をかけたね。あとで佐原くんにも謝っておくよ」 月ヶ瀬はそして、弾力があって硬いカヌレを、ナイフとフォークでゆっくりと切りくずした。 リゼはまだ仕事が残っている。つぎはあれを、そのつぎはこれを、頭のなかでめぐらせて大忙しのはずなのに、月ヶ瀬の手元を見つめながらその場を動けない。 「約束したんだ」 ちいさく切ったカヌレを口に運びながら、その言葉はひとりごとにも近かった。 「約束したんだ、昔の恋人と。つぎに好きな相手ができたら、そのひとを絶対に裏切らないと」 彼の喉仏がいちど上下する。 「約束をしていなかったら、彼といちどだけ寝てやったかもしれないね」 なんかいやだな、とリゼは思った。それはさきほどのように、話題が場にそぐわなかったせいではなかった。 いやだと思った理由がはっきりしなかったことが、またじわじわとリゼを不快にさせた。 月ヶ瀬はいちどカトラリーを置いて、まっすぐにリゼを見る。 「うーん」 「な、なんですか」 「きみに平手を食らわされても、たいしたダメージはなさそうだけど」 そしてきわめて鷹揚に、カップのハンドルを握った。 「きみがここで働けなくなるのはいやだからね」 まったくこのひとは、いつにもましてへんなことを言っている。もしかしたらこう見えて、先ほどの一件でまだ動揺しているのかもしれない。 それならばそっとしておこう。同情しつつ、リゼはゆっくりとその場を離れた。 「おう、堂島。デザートプレートふたつあがってるぞ。運べ運べ」 「わ、すみません! 運びます運びます」 キッチンとパントリーを隔てるカウンターに、こだわりのデコレーションを施された皿がふたつならんでいる。底が溶けかかっているアイスクリームを滑らせてしまわないよう、慎重にシルバーのトレイに移動させていると、佐原がシャツの腕をまくり直しながら声をかけてきた。 「お前、月ヶ瀬氏となに話してたんだ」 佐原が月ヶ瀬のことにふれてくるのはめずらしい。月ヶ瀬がリゼに向かって微笑むだけでいちいち目くじらを立てる朝宮とは違って、彼にはほぼ無関心のように見えたからだ。 「んー、なんだかよくわからない話でした。すみません、油売っちゃって」 「いや、べつにそれはいいんだけどな」 佐原は言葉を濁した。それきり結局なにも言わなくなって、背を向けた。 まだもうひとつ、デザートプレートのデコレーションが残っているらしい。忙しそうに見える彼に、これ以上声はかけられなかった。 月ヶ瀬はいつもだいたい、千円札をいくらかきっちり用意していて、お釣りといえば小銭がすこし出るか出ないかというような会計で去っていく。 しかし今日ばかりは万札を出したほうが早いと感じたらしい。自分のぶんと、泣きながら帰った少年のぶんと、さらにリゼがすすめた高いアールグレイとカヌレのぶん。 返ってきた小銭を財布にしまう月ヶ瀬の仕草は、いつもよりすこしスマートではない。ごそごそしている間気まずかったのか、そうではないのか、カウンターの向こうからリゼに向かって話しかけてきた。 「今日の話だけど、覚えていてくれてもいいし、忘れてくれてもいい。きみの都合のいいようにしてくれてかまわない」 「はあ」 煮え切らない返事をする。今日の話って、いろいろあって、どの話。覚えておこうにも、頭のなかで整理のしようもない。 「じゃあとりあえず、忘れておきます」 「わかった。じゃあ来週、また会いに来るからね」 言うなり、財布をかばんにしまい終えた彼はさっさと帰ってしまった。なんだったんだ、ほんとうに。 それでも来週、また彼が自分の知らないだれかを連れてやってきたらと想像すると、すこしもやっとした。これはわがままだ。自分は彼についてなんとも思っていないくせに、それでいて自分に興味をなくされるのはいやだな、という話。子どもの感情だ。 サロンにもどると、月ヶ瀬のいたテーブルをきれいに片づけた。彼の使った食器にふれると記憶が舞いもどるようで、支離滅裂だった月ヶ瀬の言葉の数々が勝手に整理されていく。 そして食器は、いつものように下げ台に置いた。大切に置いた。それは、高い食器を割ってしまってはいけないからだ。 「堂島」 佐原がまたシャツの腕をまくり直している。いつもそんな簡単に下がってくるようなまくり方をしていないはずだが、今日にかぎってつねに気にしているように見える。 「もしお前がお客さんにビンタしたいと思ったら、いちどだけなら許してやる。お前だけな。特別な」 「え? しませんよ。なに言ってるんですか、いきなり」 「いや、なんでもない。叩く必要がないなら、叩かないですむのがいちばんいい」 「そりゃそうでしょ」 今日はみんな、揃いも揃っておかしな話ばかり。だからリゼは、この話もふくめて全部忘れることに決めた。そうすることで不変が保たれるような気がした。 おだやかなままの日常を変えてしまうことは簡単だ。リゼはこの日常に満足している。だから波風を立てないでいいという選択肢をあたえられたならば、迷わずそれを選ぶ。 さて、忘れた。いま、忘れた。9e82dd78-820b-4189-8821-a7a3a2e2ddb7
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!