09.これからはこちらが返す番なのだ

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09.これからはこちらが返す番なのだ

烏羽が実家に帰る際、どうしても憂鬱でならないことがひとつだけあった。 それは自室の机に手紙がいくつも積み重なっていることだ。どうやら毎月届いているようで、烏羽の代わりに受け取った人間の性格ゆえに端をきれいにそろえられ、読まれるときを待っている。 いや、待ってなどいないのかもしれない。手紙の相手は読まれないと知っていながら、一方的に送りつけてきているようにも見えた。それが余計に烏羽を苛立たせた。 封を切らなくたって内容はわかりきっていた。どうせ振り込んだ金を使わないことに対する説教だ。こんなにもお前のことをかわいがってやっているのに、という押しつけがましい態度が見え隠れする文章は、一度読んだだけで腹がいっぱいになる。父親からだ。 それでも手紙の束をまとめてゴミ箱へ捨ててしまうのはさすがに忍びない。ゴミにしてしまうには、端が綺麗にととのいすぎている。これを代わりに受け取ってくれた男が見たら、なにを思うだろうか。 烏羽は結局手紙を捨てきれなかった。しかし父親のことは嫌いだし、これだけは絶対に破らないと決めたルールがある。父親がくれる金には絶対に手をつけない。自分で稼いだ金だけで生きていく。たとえそれでどんなに苦しい思いをしたとしても、けして父親には頼らない。 九月の夜はまだ暑く、烏羽はエアコンを入れた。久しぶりに稼働した機械はほこりっぽい風を吐き、しかしじわじわと部屋のなかを冷やしていく。それにつれ、烏羽もいったん怒りを引っこめた。 憎いがひさしぶりの実家だった。ここは烏羽が現在住んでいるマンションよりもはるかに広いけれど、住み心地は良くないと彼は記憶している。必要最低限という言葉が、この家にはない。あるのは大量の「不必要」だけだ。それは烏羽にとって分不相応なものだった。 ひとまず椅子に座ってみたけれどやはり落ち着かない。さっさと目的のものを持って帰ろうと立ち上がったとき、部屋のドアがノックされた。この家には、たったひとりしかいない。短く返事をすると、油のきれた蝶番の音とともに扉がゆっくりと開いた。 「奈音様、お帰りになっていたんですね」 白いものが混じった顎髭のせいで実際の年齢よりも老けて見える男。今年何歳だっただろうかと烏羽は考える。彼が着ているものについても考える。その品のいいループタイは、たとえ家に自分しかいなくても締めているのだろうか。 「田尻。ただいま」 「お帰りになるならご連絡くださればよかったのに」 「いや、いい。すぐ帰るから」 「さようでございますか。どのようなご用事で」 家政夫は後ろ手に扉を閉めると、ゆっくり歩み寄ってきた。烏羽はノートが端から端まで詰まった戸棚から一冊抜き取ると、内容を確認してかばんへしまいこむ。 「このノートが必要だっただけ」 「さようでございますか」 うつむく田尻の表情は昔にくらべて弱々しく、目は老人というよりも幼い子どものようだった。烏羽はばつが悪そうにスマートフォンで時間を確認すると、「まだこんな時間か」とわざとらしくつぶやいた。 「えっと、腹が減ったかな。田尻はもう夕飯済ませた?」 すると彼は打って変わって嬉しそうに頷く。生きたぶんだけ刻まれた皺がいっそう深くなった。 「いいえ、まだでございます。一緒にお夕飯をとりましょう。下準備がすんでいますから、すぐにできあがりますよ」 烏羽家のダイニングテーブルは、分不相応で不必要なもののひとつだった。大きすぎる。毎日、烏羽と田尻のふたりだけで使うことにより、その不自然さが際立った。 烏羽は思い出せない。田尻がここに来る前、父親と母親と自分の三人でこのテーブルを囲んだことはあったのだろうかと。あったとして、それは楽しい時間だったのだろうか。それとも思い出す価値のない記憶なのだろうか。 田尻が楽しそうにキッチンに立つ姿を見るのはひさしぶりだったが、ここに座るといやなことばかり思い出してしまう。 趣味は仕事だ、というのが父親の口癖だった気がする。ほんとうにそうだっただろうか。口癖を思い出せるほど、あの男と顔を合わせていただろうか。それでも彼が家庭をかえりみなかったのは事実で、母親はほかに男をつくって出ていった。ただ幸せになろうとしていた彼女を、幼いながらに止めることができなかった。だから田尻がうちにやってきた。 父親の選んだ家政夫なんていけ好かないに決まっていると思っていたが、ふしぎとその人柄に惹かれていった。いまでは烏羽にとって唯一の家族だ。 「さあ、できましたよ」 湯気をたたえて食器が運ばれてきた。オムライスとコンソメスープ、ささやかなサラダ。子どものころ作ってもらって嬉しかったものばかり。田尻は烏羽のほうへすこしだけ椅子を寄せて席に着いた。大きなテーブルの隅だけを使う、あのときとおなじスタイル。 「ふしぎですね。夕方にはもうメニューが決まっていたのに、奈音様の好きな食べ物ばかり」 「田尻。あの、オムライスにピーマンは」 「入ってませんよ。もう、入れないのが癖になっていますからね」 大人になってもまだピーマンが食べられない自分が恥ずかしくなって、ごまかすように手を合わせた。いただきます。 スプーンで卵の層を割り、チキンライスといっしょにすくう。なつかしいケチャップの味つけ。 「旦那様がご心配なさっていましたよ。奈音様の暮らしぶりについて」 「嘘つくな。仮にほんとうだとしても、あいつに口を出されることじゃない」 不意に父親の話題を出されてむっとする。コンソメスープを喉に流す。 「わたくしも少々、心配でございます。こんなに痩せていらっしゃる」 「それは子どものころからだろ」 鶏肉を奥歯で噛みくだく。 「そういえばそうでしたね。では、お元気そうですと、旦那様にはご報告しておきましょう」 サラダに入っていた煮豆は思い出よりもすこし甘かった。 父親から振り込まれる金には手をつけないと決めていた烏羽だったが、先日ひとつだけ、父親からあたえらえたものを使ってしまった。この回りくどい感じ、おそらく田尻はそれを言うための準備でもしているかのようだった。 「お盆は有馬の別荘をお使いになったんですね」 あくまでおさがりの別荘だったが、そこそこ立派なものをあたえられていた。そこにサロン・ド・テ・プランタンのメンバーを引き連れて一泊した。店のエアコンが壊れて、営業できなくなった日のことだ。 「お友達とご一緒でしたか」 「いや、バイト先のやつら。あのときは、掃除とか食材とか……世話になったな」 「とんでもないことでございます。久しぶりにお役に立てて、嬉しかったですよ」 「ああ。ありがとう」 別荘の存在を知っている幼馴染に無理やり組まれた計画ではあったが、みんなが楽しそうにしてくれてよかった。とりわけ堂島リゼが喜んでくれて、よかった。夜、堂島リゼの寝顔を見た。嬉しかった。 もともと食の細かった烏羽と、老いた田尻の食事のスピードは似ていた。ふたりはほぼ同時に食器を空にした。かたづけに張り切る田尻の手伝い、もとい邪魔をしてはいけないと烏羽は思った。それが本来彼の生きがいだったのだ。しかし食後の紅茶を自分がいれたいと申し出ると、田尻は感激した。 「奈音様がいれてくださった紅茶が飲めるなんて」 ほとんど立ったことのない実家のキッチンだったが、道具がそろっていて湯さえ沸かすことができればなんとかなる。烏羽はすこし得意げに、いつもバイト先でやっている手つきで紅茶をいれてみせた。「すばらしい」と絶賛する田尻の表情は、かつて烏羽が作文のコンクールで賞を取ったときとおなじものだった。しかしやや涙ぐんでいたのは年齢のせいだろうか。 ご立派になられて。なんて、ちょっと紅茶をいれただけで言われる台詞だとは思わなかった。 「田尻、その」 「ああ、しまった。失礼いたしました」 すこしささくれた指先で、田尻は涙をぬぐった。烏羽はどこか照れくさい気持ちになりながらダイニングテーブルへ紅茶を運んで、ふたつのカップにそそいだ。 「ダージリンセカンドフラッシュのシーヨック茶園か。そういえば俺がダージリンにこだわりはじめたきっかけって、田尻の影響が大きい気がする」 「おや、さようでございますか。とても光栄です。いまではわたくしよりも紅茶に対する知識が豊かになられましたね」 食後の紅茶はいつもゆったりと。烏羽は昔から、この時間がとても大好きだった。学校であったできごと、楽しかったこと、ささやかな悩みを話すことができ、そしていつも笑顔で聞いてもらえた。しかしこんなにもひさしぶりだと、なにを話していいのかすこし迷う。 「田尻はなんでいつも、ダージリンを季節ごとに買ってたの」 「うーん、やはり、季節のうつろいを感じるためでしょうか。ボジョレー・ヌーヴォーを毎年楽しみにしているひとがいるように、わたくしも毎年、三度のダージリンを楽しみにしています」 「そうか。今年のセカンドフラッシュは、シーヨックと、ほかにどこを買ったの」 「今年はシーヨックだけです。それも、いつもの半分の量でございます。なにせわたくしひとりですから、なかなか減らないもので」 烏羽はそのときなにより、田尻の目からふたたび涙があふれてしまうことを恐れた。だからとっさに謝ってしまった。自分がここを出ていってなお雇われつづけているせいで、ひたすらに庭手入れにしか精を出すことができない彼。彼もまた、自分の父親のせいで孤独になってしまった者のひとりなのかもしれないということが、脳によぎった。 「どうして奈音様が謝られるのですか」 「いや、なんとなく」 「奈音様のおっしゃりたいことはわかります。しかし、いいのです。わたくしはこの家にお仕えできて幸せですよ。旦那様にも感謝しています」 田尻はやさしい。きっとこの言葉だって本音に違いなかった。 だとすると、烏羽が彼に報いるためにできることはひとつしかない。 「田尻。またこんなふうに、ときどき帰ってくるから。また一緒に紅茶を飲もう」 「はい、もちろんでございます」 今夜は泊まって帰ろうと烏羽は決めた。それ以外に選択肢はないだろう。明日のスケジュールが気になったが、きっとなんとかなる。 ひとまずいまは、彼ともっと話をしよう。 これからはこちらが返す番なのだと、ようやく気づいたから。3e85d262-e63b-4e8e-929e-75c25ebdeb1f
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