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8歳から18歳までの10年間。時間に換算すると87,600時間。 この安穏で潔白で誰も傷つくことのない規律然とした世界の素晴らしさをすり込まれ続ける数字だ。 絶対的居住地アルケイディアの中で浄化された清潔な空気を吸うことを許された対価であり、悪意や戦意という概念を根本から消し去る為に義務付けられたディシジョンでもある。 だが僕はどうにもその清潔な空気を吸うのが下手くそなようだ。授業が終わるとすぐさま自転車に跨り、ノースブロックにある自宅兼アルバイト先へ駆け込むのが日課になっている。 ボルドーカラーの看板が際立つ雰囲気のよいダイナーだが、この店に料理を目当てに来る客は居ない。 調理マシンを持っている家庭ならば、自宅でダイエットフードからメキシカンフードまで大体のものは何だって食べられる。 だと言うのにこの店がこうして存在しているのは、“店で食べている”という充実感が人々の心を満たし、非日常性が大人達の高揚感をくすぐるからだ。 この店は勿論すべて政府の管轄内で、雇われオーナーの女性と僕は一緒に暮らしている。僕には両親が居ないから。 いつものように授業を終えてダイナーへ向かい、常連客と一言二言会話を交わしてキッチンルームを覗くと、ゴウゴウと不快な音で叫ぶ鉄の塊が居心地悪そうに項垂れていた。 裏手に回り、タブレット端末をその塊の電子回路へと繋ぐ。 そして鞄から取り出した型落ちの古びたミュージックプレーヤーの再生ボタンを押した。 ざざ、と不快な音が微かに聴こえた後、ゆっくりと曲が始まる。 ハンマーヘッドが弦を押し上げるその1音がヘッドフォンから耳に入り、体に溶け込んで僕の意識を生成していく。 ピアノの形状は知っている。 音が鳴る構造も理解している。 でも本物のピアノという楽器を目にしたことは一度もない。 今は電子音楽が主流で、鼻歌を歌えばそれをAIが認識しメロディラインを形成、最適なベースやパーカッションを入れて曲にしてくれる。 音楽に技術なんて必要ないこの時代で、クラシック音楽を聴いている人間は僕だけかも知れない。 「シーア。洗浄液が切れたんだけど、新しいのは何処にある」 その声で僕は一気に現実へと引き戻された。     
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