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#一 上野駅(一)
時は明磁二十二年!
睦月も半ばを過ぎて正月気分が抜けてきた折、上野の停車場は人波でごった返す。
あちらの紳士は羽織袴、そちらの貴婦人はドレスに蝙蝠傘と、行き交う人々は老若男女、和洋折衷の混ざり合う混沌とした有様。
そこへ降り立つ男がひとり。
紺色の洋装。その上に羽織った外套も、頭にかぶった笠も紺。
折しも時刻は夕暮れ。人と人ならざるものとの境目が揺らぐ逢魔が時。
男の服も公園(※一)の側から射す西日に照らされて、見た目は限りなく黒に近い。
肩からは黒く大きなカバンを下げ、まるで処刑人か何かのよう。
周りを行き交う人たちも関わり合うのを恐れて近付こうとしない中、果敢にもかつ無謀にも、ひとりの少年が男へ歩み寄る。
「おっちゃん、靴磨かせてくれよ」
十歳前後だろうか。小ぶりの和装に鳥打帽(※二)をかぶり、足下は靴ではなく足袋と草履という寒々しい格好。
「……」
男は少年をギロリと一瞥して、無言で背を向ける。
笠で隠れて表情はほとんど窺えないが、わずかに覗く眼光は鋭く、薄い紙なら視線だけで切れそうなほど。
だが少年は度胸があるのか馬鹿なのか、なおもしつこく男へ食い下がる。
「なー、磨かせてくれってばー。おっちゃん、おっちゃーん」
「……」
そのまま数メートルは進んだだろうか。
これまで無言を貫いてきた男はふいに振り返ると、外套の裾を掴んで離さない少年の胸倉へ手を伸ばす!
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※一 公園…東京府の管轄であった上野寛永寺の境内は、一部を除いて明磁六年に公園へと指定された。
※二 鳥打帽…狩猟や乗馬の際に落ちないように作られた平たい帽子。ハンチングとも呼ばれる。
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