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猫はお好き?
帰りがけに、蝶を食む猫を見かけた。それは4月上旬の、病人が吐く息のような風が、ぬるく吹き渡っていた頃の話だ。何の用があって外出したのかなんて、とっくに忘れてしまった。ただただ、翡翠の翼を持った美しい蝶の翅を、虎柄の猫が無感動に食んでいる様子だけが、自分の中で鮮やかに記憶していることだった。
最初は、死にかけの蝶が往来の真ん中でもぞもぞと蠢いているのみであった。都心部から少し外れたところに位置する、夜の住宅街。血管のように張り巡らされた細い小路の、その一角。人影はおらず、ただ家路を辿る自分のシルエットが、街灯に照らされてほのかに動くのみだ。その死にかけの蝶は、恐らく、自分に見つけられなければ、孤独に息絶えていたのだろうと思う。
私はつと、その苦しげに藻掻く翡翠が目に入った。千切れた翅を懸命に動かし、少々冷えた夜風を浴びて踊り続ける、その姿が。そうして、そのどうしようもない現実に抗議するかのように、活発に羽ばたき続けるそれが、ひどく滑稽なものに思えた。稚拙な芸術作品を鑑賞しているかのような、居た堪れない心情に襲われた。この蝶は、私の人生において何かしらの示唆をもたらすのであろうか。三年前、いやに文章を卑屈に読む癖がついてしまった。それはまだ、どうにも抜け切っていないようであった。
蝶の傍らに立って、恐ろしく冷笑的な自分を押し殺した。いや、違うのだ。多分これは、自分にとって何らの意味も成さないものだ。蝶が苦しんでいることと、自分は何の関係も持たない。彼(または彼女)は誰にも知られることなく、密やかにこの小道で死ぬし、そして自分は何事もなかったかのように――実際、本当に自分は何事もなかった――朝を迎え、日常に還っていくのだと思った。それは決して悪いことではないし、自分にとって一抹もの不利益を及ぼさない。日常に帰依している限りは、自分は安泰なのだと感じた。そうして翡翠の蝶は、静かに死んでいくのだ。
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