エピローグ

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エピローグ

日本列島が新型コロナウイルスに毒されて半年以上が過ぎた。自粛自粛の連呼ですっかり忘れていた店の存在を唐突に思い出した。切っ掛けは配車アプリだ。逼迫するタクシー業界を象徴するかのように新しいボタンが増えていた。おうちでグルメという項目だ。手空きのドライバーが宅配を担う。 その一覧の隅にタベルナ・ベントが埋もれていた。 「おうちでグルメ」→「ちょっぴり贅沢」→「スペシャル」といったあからさまな深層でなく、「喫茶」のメニューに「たまにはこんな一杯」というコーナーの単品メニューとして出店していた。 「デリバリーは断固としてやらない方針でしたよね」 伝手を頼ってようやく探し当てた店は西香里園の住宅街に隠れていた。空き家同然の古民家を丸ごと玄関にしており、勝手口まで突き抜けると裏庭にビーチパラソルが咲いていた。 ポリシー変更の経緯を店主に問うと「大阪都の方針ですね」とそっけない。密を避けよ、と指導が入った。同業の隠れ家カフェはオープンな形式に業態転換するか事実上の廃業に追い込まれた。さらに届け出をして所在を明記する義務がある。 「誰でも出入りできる古民家カフェってことですよね。それに『風のお食事処』って、ちょっと今のご時世的に拙い屋号ですね」 忌憚なき意見に店主はひょうひょうと述べた。 「別に…タベルナ・ベントはタベルナ・ベントです」 「でも店名は古民家カレー仙庵じゃないですか」 「ああ、それね…」 彼はカウンターからメニューを取り出した。カレー屋、鮨屋、そして純喫茶。三店舗が物件を共有している。 「これって?」 「昼は仙庵、夕方から大漁水産、そして深夜早朝帯はうちで回してます」 「いったい何を考えているんだ」 「メニューを見てまだ気づきませんか?」 カレー、寿司、喫茶、臭いのきつい食材ばかりでよく苦情が出ないものだ。 いや、待てよ。鮨屋が魚臭いという話は聞いたことがない。 「何か特別な消臭剤? …そうか、酢飯か!!」 なるほど、鮨屋は大量の酢飯を炊く。その水蒸気が蔓延してカレー臭を解消するという仕組みだ。店主は黙って笑みをうかべる。 「鮨屋の後に開店する喫茶店なんて誰も入りたがらないでしょう」 「確かに…折角の香りが台無しになる。それとも酢飯を超えるキラーアイテムがあるんですか?」 新しい疑惑はオープンテラスが自動的に解消してくれた。なるほど、屋外で寿司は握らない。 「私はね…一杯のコーヒーがつなぐ絆とくつろいだ空間を共有したいだけなんです。その為にお客様の顔が見えないデリバリーはしない方針でした」 「だけど…行動変容をした?」 「ええ、そうです。コーヒーだけは百歩譲ってお客様の顔が浮かぶ。最初の一杯を入り口に足を運んでくださる貴方のようなお客様をお待ちしています」 店にはWiFiも完備したそうだ。ただし、他のプロバイダは一切使用できず、コンテンツもフィルターされていて風景写真や動画、山中の観光用ライブカメラにしかアクセスできない。 「相変わらず徹底していますね」 スマホアプリからSNSに接続できない。そうこうしているうちにカラコロとカウベルが鳴った。 「うわ~ここだ、ここだ。風の噂通り~」 「しーっ。たえちゃん、スマホの電源切った?」 「え~何で~~? あっそうか」 OLの片割れは店長と目が合い、ばつが悪そうにぺこりとお辞儀した。
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