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序章
約束の場所に現れた七海は、母から聞いていたのとは随分と雰囲気の違う女性だった。吉祥寺駅の北口で心細いのを隠すように姿勢よく立っていた凛の強く握りしめていた携帯が鳴って、出るや否や「オレンジのキャリーバッグを持ってる?」と言いながらぐんぐん近づいてきた七海。
母は七海のことを、頭がよくて優秀で大企業で働く女性だと言った。お母さんと違って自立してる女なのよ、と。しかし現れたのは、マキシ丈のワンピースにサンダル姿、眉すら整えた様子のないノーメイク、胸元辺りまで伸びた茶色い髪は柔らかくうねっているがおしゃれというより猫っ毛の髪が自然とそうなってしまいましたという感じの力の抜けた女性だった。
母と同じ四十歳には見えない。でもそれは、年齢から考えられる何者かー妻、母、働く女ーのいずれにも属していないように見えるからであって、若く見えるというよりは人を不安にさせる年齢不詳さだった。
目の前に立った七海は「やあ」と手をあげてそれからすぐ「似てるね、早紀代に」と笑った。母に似てるなんて最悪、と凛は思う。それに「やあ」って何だよと。だけど顔には出さずに頭を下げる。
「じゃ、行こうか」
七海が言ったその時、突然、一人の男が凛のキャリーバッグを掴んだ。びっくりして叫ぼうとしたら、その男は凛を見て微笑んだ。
「あ、忘れてた。荷物持ちに来てもらった祐生、三十歳」
「やだあ、年齢まで言うことないのに、ねえ」
祐生は、これまた三十とは思えない童顔でそう言って笑う。
七海は独身だと母から聞いていた。彼氏がいてもおかしくはないけど、十歳も年下なんてすごいな、と思う。金曜の夕方まだ早い時間にこんなとこにいていいのか、とも思う。しかもポロシャツに七分丈のパンツにビーサン姿。
凛は力の抜けた服を着てニコニコしている大人たちを訝しげに見たが、バッグは祐生に託すことにする。
何しろ凛は疲れていた。長野から吉祥寺に来るだけでへとへとだった。八月の東京の暑さ、湿気、何より人の多さ。帰宅ラッシュには早いはずの電車も、祭りでもあるのかと思う混みようだった。
無表情で混んだ電車に揺られる人たちを見ていると、自分だけがとんでもない田舎者に思えた。
疲れきった凛は、だから母から聞いていたのと何だか様子が違う気もしたけれど、とにかく二人の後を歩き出したのだった。
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