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1章
母がスーツケースに服や日本食を詰め込みながら、単身赴任の父が住むタイに行ってくると告げたのは、夏休みが始まって五日目の七月も終わりだった。
父は四年前からタイにいる。母は最初は家族で行くことを望んだけれど、凛の中学受験のために諦めた。アメリカやイギリスだったら受験をやめて一緒に行ったのに、と母は同じ愚痴をこの四年飽きるほど言い続けている。
最初のうちは長い休みに母とタイを訪れたし、スカイプでよく話もした。父も年に二、三度は帰国していた。それが三年目に入った頃からメールやスカイプが減り、この一年は一度も帰国しなかった。母が訪ねようとしても仕事が忙しいからと渋る様子で、そのうち母は夕食作りを忘れてぼんやりしたり、突然ぽろぽろ泣いたり、情緒不安定になっていった。
「浮気だね、間違いない」
友人の美晴はきっぱり言った。
「やっぱりそうだよね」
そう言いながら、凛はあまりショックを受けていない自分に気づいていた。父に頼りきりの母を見てきたから、父は一人になれることを少し喜んでるんじゃないかと思っていたし、それでいて一人で平気なほど強くもない父を知っていた。
自分でもどうしてこんなに冷たいのかと思うけれど、母が情緒不安定になっているのを見ても苛々するばかりだった。めそめそ泣いてるだけで、やっぱりあのとき一緒にいけばよかったと繰り返している。そんな母を見るたび、心配や同情よりも軽蔑する気持ちが沸き上がってきてしまうのだ。
父も父だ。浮気するにしたってもうちょっとうまくやればいいのに。二人ともいい年して本当に馬鹿みたい。私は絶対あんな大人にならない、と凛は強く思うのだった。
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