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口から血を滲ませた課長は、痛いとか口の中が切れたとか、そういう肝心な話は一切しなかった。
ーーーなんで、殴られて文句も言わないのかなぁ。
不思議でへんな男。それに、意地悪で自意識過剰。
「あの、上野さん」
玄関で靴を履く課長へ声をかけた。
「なんだ」
「私のせいで、口切れましたよね?」
「心配か?」
「いえ、心配というか……」
「嫌いな上司のことを一応心配するふりか? 心配すんな。訴えたり、治療費がどうのこうのと言うつもりは毛頭ない」
クツを履いて、クルッとこちらを向いた課長に私はジャケットを渡した。
「はあ…すみません。でも、私、直接課長のこと嫌いだっていいましたか?」
ーーーさすがに嫌いと面と向かっては言って無いような気がするけど。
顎をさすりながら
「好きなのか?」と、軽い感じで聞いてくる。
「いえ、まさか」
「だろう? 好きなら、キスして吐きそうってことには、ならないからな。言わなくてもわかる……俺の方は…」
「はい?」
「……ふっ」
課長がいつも女子社員に見せているのと同じ優しそうな満面の笑みをみせた。
その瞬間、もうとっくに秋なのに爽やかな春風が、私の周りを吹き抜けた感じがした。
ーーーなんで、そんな風に笑うの? 変だよ、課長。
「ふん。……じゃ、頼むから落ちるなよ」
課長の後ろ姿を見送り、鍵をかけて廊下をゆっくり歩きダイニングキッチンへ戻る。
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