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(1部)prologue:JUNE
徐々に近づいてくる足音が、自室のドアのまえでぴたりと止まった。そして控えめにドアを叩く音。
ジュンはベッドの端に腰をかけて耳を澄ませていたから、その空耳かと勘違いしてしまいそうなほど小さい音を聞き逃すことはなかった。
室内は暗い。天井に二本設置された蛍光灯も、部屋の四隅にある間接照明も点けていない。この部屋には月あかりを取り込む窓さえなかった。辛うじて、テレビ、ブルーレイプレイヤー、エアコンといった電化製品の主電源の光が灯の役割を担ってくれている。
ドアが静かに開いた。
「ジュン」
囁き声とともに、光の塊が目の隅で瞬く。スマホの照明だとすぐにわかる。
「なに?」
首を左に曲げ、閉じられたドアを見やる。そこにはふたつ違いの兄、玲が立っていた。
スマホの青白い光に照らされた彼の細面の顔は、いつもより血色が悪く見える。
「ちゃんと準備はしてる? ――え、もしかしてそれだけ?」
玲の朗らかな声が、呆れたようなそれに変る。
ジュンは、ふだん外出のときに使うデイバッグひとつしか持っていなかった。それを背負ってから立ち上がる。ここでぐずぐずしている時間は、あまりない。
「本当に俺、行っていいの?」
一応最終確認をとる。
「いいよ」
「あんたが良くても――」
「あの人たちのことなら、俺がなんとかする。心配するなよ」
ジュンの気がかりを払拭するように、玲が強い口調で言った。
同じ背の高さの玲が、ジュンの肩にそっと片手を置く。
「一年経ったら戻ってきなよ。でももし」
玲が言葉を切った。逡巡するように視線を彷徨わせたあと、また口を開いた。
「帰るのが嫌になったら、それはそれで」
玲は微笑み、語尾を濁した。わざとっぽい仕草だった。
「俺が戻らないと――あんたが困るじゃん」
「ジュンにとってこういう展開は健全だと思うから」
ジュンの肩から、玲の手が離れていく。
「さあ行って」
玲の言葉に押されるようにして、彼の横をジュンは通り、ドアへと向かう。
「さようなら」
後ろから声をかけられ、ジュンは振り向かずに「さようなら」と答えた。
玲の言うようなことは起こらないと思う。自分は一年後、ここに戻るだろう。
兄以上に大事な人が現れる可能性なんて、ジュンには考えられなかった。
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