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「生前に陛下の為したことは、どれもろくなものではなかった。したが、一つだけ感謝していることがある」
耳の後ろで、神がささやく。
「八年前、そなたと引き合わせてくだされたことだ」
「もったいないお言葉」
それだけしか答えられなかった。
マツバ姫が、静かに身を離す。触れられていた肩の温もりが、冷気の中へ急速に散っていく。
前庭にいた中年男の姿は、いつの間にか消え去っていた。
「しかし、そなたにはそなたの未来がある。婿に取られて泣く娘はおらぬと申しておったが、もしも想い合う者が現れたら、遠慮なく妻として迎えるがよい。正室の座は譲ってやれぬが、わたしはそなたの幸いを願っている」
「私のことより、ご自身はいかがなのです」
「わたしか」
「マツバさまの幸いこそ、私の願いです」
「さて……幸いと災いは紙一重」
はぐらかすように言って、姫はまた欄干にもたれかかり、遠い空を見る。久しぶりに、広く晴れわたった青天であった。国土を取り巻く山々の、雪を頂いた峰がその空に映える。
「会いたくもあり、会いたくもない」
「それは、どういう意味です?」
「そなたは、知らずともよいことだ」
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