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休章
穏やかな陽射しを照り返す水面に、秋の雲が映っている。連なった蜻蛉がその上を渡り、小さな波紋をいくつか残していった。
水際には、少女が一人。仕立てのいい、しかし簡素な筒袖を着て、布で包んだ棒状のものを腰に差している。
かつてここには、たくさんの花が咲き誇っていた。丈の高い草が密集し、小さな人影を完全に覆い隠すほどであった。
しかし今、池のほとりには常緑の灌木が植えられ、すっかり見晴らしがよくなっている。これなら仮に曲者が忍びこんでも、身を隠せない。同時に、子どもが大人の目を盗んで悪戯をする余地も失われた。無闇に小動物の命を奪うことも、短剣を振るって草花を切り落とすことも、会うと叱られる相手に会いに行くことも。
だからこの少女が独り佇んでいる姿も、すぐに大人の目に留まる。
「ユウ」
自らを呼ぶ声に、少女は目を輝かせて振り返る。そこには鮮やかな紅の衣を身につけた、敬愛する主人の姿があった。
「かようなところで、いかがした」
「ここ、好きなんです。何となく、落ち着くので」
「そうか」
「あとは、笛の練習をしたり」
少女は腰に差した布包みに、手を当てながら答える。
「わたしも幼いころは、一人でよくここにいたな」
「そうなんですか」
少女は先を訊きたそうな顔をするが、その人はそれ以上、思い出を語りはしなかった。懐かしげな眼差しに混じる、一抹の憂い。
遠くで鳶の声がする。
「そうだ。今日あたり、橋場で祭市が立つはずだな」
不意に明るい声で主人は言う。それを聞くと、少女は頬を上気させた。
「行きますか?」
「支度をして参れ。よいか、誰にも見咎められるなよ」
その人はわざと声を低めて、片目を瞑ってみせた。
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