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何事もなかったかのような顔をして朝を迎える必要は、もうないのだ。きっと、初めからそうする必要なんて、なかったのだろう。
泉美は、シャワーの下から出ると、浴槽に湯を溜めた。
夫は、湯に浸かるのが嫌いだった。
泉美は風呂が好きだったが、一人のために何十リットルもの湯を使う気になれず、もっぱらシャワーで済ませていた。そんな些細な遠慮ばかりだ。自分で自分を封じ込め、ひどく矮小に暮らしていた。
42℃のシャワーを、40℃まで下げる。
戦いに臨むような気持ちで受けていた飛沫が、急に優しくなった。所々まだらに赤らんだ肌が、柔らかなピンク色に変わっていく。
こうやって、気づかぬうちに自分を痛めつけていたのだろうか。
たっぷりと沸かした湯に浸かると、ホッと腹の底から息が出た。それが随分久しぶりの感覚がして、深呼吸を繰り返す。
じわじわと体が緩んでいく。ヒールで強張ったふくらはぎを揉むと、わだかまりが湯に溶けた。
ぐっと手足を伸ばすと、あぁと大きな声が出た。
今度は反対に、ギュッと自分の体を抱き締めてみる。
あぁ。
私の体だ。
頭を浴槽の縁に預けて弛緩すると、ひどく幸福な気がした。
今となっては、夫のためには涙一つ出そうにない。その必要もないだろう。
今日一日は、私のためにある。明日もあさっても、この先ずっと、この体一つを慈しんでいこう。
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