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空を仰いだ彼は今こそ不気味なほどに静かだが間もなく荒れるだろうと感じ取った。だからいつもより急いで鹿の後ろ足をワイヤーで縛ると、ほとんど滑り落ちるように山を下りる。あとは記憶の中の地図を頼りに渓谷を進み、また山を少し登って慎ましい山小屋のドアを開くだけだ。
運搬の際に牡鹿の立派な角はへし折れて置き去りにされた。今のところ角を利用する必要は彼になく、ましてやトロフィーを誇る気はさらさらなかった。必要なのはまず肉で、次点で毛皮だった。
渓谷を進みながら彼はふと違和感に気付いた。言語化不能で勘に近いものだが今までになく焦燥感が高まる。足を止めて彼は周囲をキョロキョロと見渡す。何気なく彼は引きずった鹿に由来する血痕が目についた。
長く伸びた血痕の先で彼は目が合った。体躯が立派で真っ黒な熊が彼を見つめていた。まだ距離はあったが、熊に狙われていると知った彼はすぐに動けず息を飲んだ。
ぶつかった視線を彼は外して、しばらく膠着状態が続いた。この時期に熊は冬眠をしているはずであり、冬眠に失敗した熊は穴持たずと呼ばれ凶暴性が増している。それなりに狩猟経験が豊富な彼ですら相手にした経験はなく、ましてや今は単独だった。
彼は獲物を諦める他になかった。鹿の足を縛るワイヤーを掴む手を開いて離すと、熊の方を向いたままゆっくりと後ずさりをする。熊はそれを見て彼の方に近付いて来た。やがて鹿を目の前にした熊は勢い良く鹿にむしゃぶりついた。
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