娘と

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その銭湯は住宅街にポツンと佇んでいた。 暖簾を潜ると下駄置きがあり、木札の鍵が付いている。 建物は随分古いようだが、その古さはシンプルな造りと相伴ってレトロな雰囲気を醸し出し、清潔さを感じさせる。 脱衣所の入り口で別れると、隆司は一人服を脱ぎ捨て、浴室に入った。大きな浴槽が一つ、瑞恵泉の褐色の湯を貯めていた。 隆司が入ると僅かにお湯が溢れる。今日一日の出来事を湯に浸かりながら隆司は考えた。 甲府から東京に出ててきて、失踪する妻を見つけるために、娘と駅のホームで待つ男。 若いころ妻との日々過ごした街を娘と歩き、何だか妻はすぐ傍にいるような気がした。 もしかしたら、真奈美は貴子の所在を知っているのかもしれない。知っていて、あえて隆司に探させているのだ。妻と、そして自分自身を。 俺は見つけることが出来るだろうか。隆司はふっと息を吐いて自問した。 「良いでしょ。ここ。」 タオルドライしただけの、まだ濡れて艶のある髪を垂らして、自慢気に真奈美は言った。東京に出てきてからはほとんど毎日この銭湯に通っているのだという。真奈美は機嫌良く鼻歌を歌う。 「真奈美も好きなものは変わらないな。それ、子供のときから歌ってた。」 隆司は笑いながら言った。 「憶えてるわ。お風呂の中でミュージカルして遊んだよね。パパは父親役から若い電報配達役まで何でも引き受けてくれて。」 真奈美も思い出して言った。真奈美が身体を動かすとシャンプーの香りがする。 「ねえ、良いことを思いついた!まだ誰もいない時間の銭湯でミュージカルをするの。家のお風呂より広いから気持ちが良いわよ、きっと。」 銭湯から自宅に戻る道すがら真奈美はそんな冗談を楽しそうに話して聞かせた。 すっかり温まった身体を夜風が優しく冷やしていく。 真奈美の部屋に戻ると彼女はソファーに横になった。 隆司は真奈美のベッドの上に寝る。枕から微かに銭湯のシャンプーの匂いがする。 「お父さん、私、お父さんに嘘を吐いてたの。」 電気を消すと、彼女は急に真剣な声色で言った。 隆司は隣のソファーで真奈美の息遣いを直ぐ近くで感じる。 「ママを見かけたっていうのは嘘。」 真奈美は僅かに震える声で続けた。 「パパを連れ出したかったの。そして、今の私を見せたかった。そうでもしないと、パパは来てくれないと思ったから。」
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