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「明日、渋谷で劇団の公演があるの。パパに観に来て欲しい。もしかしたらママも風の便りでも聞いて、来てくれるかも知れないし.....」
真奈美はそれだけ言って、隆司の返事を待たずに眠りについた。
隆司も目を瞑った。貴子を想って。真奈美を想って。
思いがけず眠りは早くやって来た。
その夜、隆司は銭湯で家族三人ミュージカルで歌を歌う夢をみた。
翌朝、起きると真奈美の姿は無く、ミュージカルのチケットが一枚、テーブルの上に置いてあった。
やはり母娘の血は争えないと、隆司は苦笑した。
会場は渋谷の複合施設の中にあった。
開場一時間前には既にホワイエに沢山の観客が集まっていた。
正直に言って、驚いたよ、隆司は心の中で感服した。
真奈美は主役だった。演目は『The Sound of Music』。
幕が上がるとマリア役の真奈美が緑の丘の上に美しい姿で立っている。
17歳になる真奈美にスポットライトがあたり、輝いて見える。昨日の真奈美よりもはるかに大人びた美しさを湛えている。
オーケストラの演奏とともに、真奈美が歌う。
その声は透明で、無邪気で、力強い、家の風呂場で歌う真奈美の声そのままだった。
真奈美はあのお風呂から育っていったのだ。
サイドバルコニーから劇を見下ろすかたちで、娘の躍動する姿を隆司は目に耳に焼き付けるようにして魅入った。
昨夜、鼻で歌った『The Favorite Things』。ワルツの心地良いテンポに真奈美の声が乗る。劇場全体が三拍子に揺れるような一体感があった。
俺ももう一度自分の人生の舞台に戻らなければならない。この観客席から、舞台の上に。
隆司は真奈美の歌声を聴きながら思った。
貴子を探しに行こう。東京にいなかったとしても、あるいは日本にいなかったとしても、世界の何処にいたとしても見つけてみせる。
再三のカーテンコールを受けて、真奈美の舞台は幕を閉じた。
隆司は心を込めて娘に拍手を送った。
その時、立ち上がった観客の席にベージュのトレンチコートが掛けられているのを見つける。
一瞬、拍手の音が鳴り止み、時間が止まったように感じた。会場が明るくなって、観客たちが座り始める。
気づくと隆司は観客の塊を押しのけて、そのコートの持ち主を追いかけていた。
貴子と自分自身の人生とを必死に追いかけようとしていた。
了
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