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浴槽に身体を入れるとお湯が溢れた。
普段と同じ浴槽だが、別の人間が沸かしたというだけで不思議な心地がする。
妻と結婚して以来、家事の類の中で唯一、浴室の手入れとお湯を沸かすことが隆司の仕事となっていた。入浴に特別なこだわりがあるわけではなかったが、妻は結婚前浴槽に浸かる習慣が無かったので、自然とそれは隆司の役割となった。妻と別れてからは、自分一人のために浴槽を磨き、お湯を張った。
何故、突然娘は帰ってきたのか。真奈美は「ただいま」とだけ言って何の説明も付け加えなかった。隆司も敢えて聞こうとはしなかった。
「私、この家のお風呂、好きだったわ。不思議と落ち着くのよね。」
真奈美は懐かしそうに言った。
実際、真奈美は風呂に入るのが好きだった。
幼いころは隆司と一緒に風呂に入って、よく遊んだ。
『The Sound of Music』の映画を観てからは、すっかり取り憑かれ、風呂場の音響を利用して歌を披露するようになった。彼女のお気に入りは『My Favorite Things』だった。
「パパの好きなものは何?」
幼い真奈美が無邪気に尋ねる。
「金曜日の夜とビールと辛子蓮根かな。」
隆司が答えると、真奈美は不思議そうな顔をして、
「真奈美はレンコン嫌い。」
と言って、また歌を歌い始める。
真奈美は中学を卒業すると、家を出て都内の劇団に入った。妻は初めのうち猛反対したが、やがて持ち前の気まぐれさで、娘の上京を認めた。隆司は最初に妻をなだめる役に回ってしまったばっかりに、いざ妻が態度を変えると、今更反対する訳にはいかず、娘を見送ることに腹を決めた。
「今日は私がお風呂掃除して、お湯沸かします。」
真奈美は子供のように笑いながら言った。
今年17歳になる真奈美は健康的な顔立ちで、親の贔屓目はあるにしても美しく育ったものだと隆司は思った。
一緒にお風呂に入らなくなってから、隆司の知らない間に娘は女に育っていった。柔らかで繊細だった肌は引き締まり、代わりに乳房は柔らかく膨らんだ。 これから彼女の人生には運命のスポットライトが当たり、男たちが彼女の人生のページを埋めていくのだろう。
「お湯加減はどう?」
脱衣所から探るように真奈美が声をかける。
「うん、良いよ。どうした?」
隆司は娘の影が映る曇りガラスに向かって答える。
影は少し躊躇うように下を向いて言った。
「うん。実は私、ママを見かけたの...」
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