風呂と

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「貴子が、東京でか?」 思ってもみなかった話に隆司は少し驚いて尋ねる。 身体が火照ってくるのを感じる。 「うん、吉祥寺の駅のホームで見かけたの。あれは間違いなくママだった。」 真奈美ははっきりと断定した。 「線路を挟んで反対側だったから、追いかけようとしたけど、直ぐに電車が来て間に合わなかった。ママを見かけて、それでパパに伝えなきゃって思って帰ってきたの。」 隆司と貴子は1年前に離婚した。正確に言えば、貴子が離婚届を置いて失踪した。隆司はそれを提出していないから、正式には未だ離婚してはいない。何の前触れもなく(多くの場合離婚とはそういうものなのかも知れない)彼女は姿を消したので、隆司は困惑していた。離婚届と一緒に手書きのメモに事件性のことがらではないことと、隆司に落ち度はないことが簡単に記してあった。しかしそのメモはそれ以上を語るものではなく、貴子が失踪した理由はやはり分からないままであった。 しかし、やはり自分に何か問題があったのだろうと隆司は思う。普通の夫は妻を失踪させたりはしない。きっと根本的で修復不可能な欠陥があったのだ。 既に東京のいた真奈美に貴子の失踪を知らせた時、真奈美はきっと自分のところに来るつもりだろうと言った。しかし、結局真奈美の前にも貴子は姿を見せなかった。 「吉祥寺か…」 隆司は一度浮かせた腰を再び浴槽に沈めて、考え込む。吉祥寺は二人が学生のころ、良くデートした街だった。隆司は三鷹にある大学寮に住んでいて、貴子も近くの女子大に通っていたから、自然と吉祥寺で二人は会った。今、貴子が吉祥寺にいたとしたら、何か意味があるのか、あるいは偶然見知った街に行ったというだけなのか、隆司には判断がつかなかった。 「ねえパパ、東京に来て一緒にママを探さない?私やっぱりママに会いたいし、どうしていなくなっちゃったのか聞かなきゃダメだと思う。」 真奈美の影が言った。 見つけたところで。隆司は考える。見つけたところで、どうすることもできない。貴子は自分の意思で自分の許を離れ、そして何処かで生きているのだ。自分の根本的な欠陥、それが何であるか未だに分からない自分が会いに行っても、きっと何も変わらない。 しかし、貴子は真奈美にだけでも会うべきだとも思う。母親を失う理不尽の中に娘を置いておくべきではない。 隆司はふやけた指で濡れた髪をかきあげる。貴子は今何をしているのだろうか。
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