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さて、どんなものだろうか
湯船に足を入れると、冷えた足にピリピリと刺激が走る。けれど少しすれば痛みも消え、じわりじわりと温まった血が体中に巡り始めた。つま先、膝、腿、腰、お腹と、ゆっくりと体を浸けていく。久し振りの入浴は凝り固まった体をほぐし、体の芯まで温める。少しだけ重力から解放された私は、思わずかつての父のようにあぁと声を漏らしていた。
「そういえば、小さい頃は潜って遊んだっけ」
水面からはわずかに昔の防虫剤のような、実家の押入れの匂いが漂ってくる。その匂いにつられ、私は幼き頃を思い出していた。こういうのをプルースト効果というのだったか、香りで昔の記憶が甦ると聞いたことがある。『思い出』とはこのことかと、一人静かに納得した。
銭湯や温泉では絶対に許されない、お風呂だけの特別。プールや海とも異なり、全身が水に包まれる不思議な安心感。幼い日の私は、その魅力に取りつかれていたのだ。
香りにつられて心まで少年のあの頃に帰ったのか、なんだか無性に潜りたい気持ちが抑えられない。子供っぽいからと潜らなくなったのは中学生の頃だったか。もうすっかりその頃よりも大人になったというのに、私は鼻を摘み、懐かしさに身を委ねて湯の中へと潜り込んだ。
水が聴覚を遮り、音が遠くなる。
ごうごうと水の音が響く中、背筋と膝を屈め、私は標本のように水中に漂った。一人だけの世界に思いを馳せ、クラゲのようにあるがまま存在する。そこにはかつて確かに楽しんだ、私だけの世界があった。
『……っち、こっち。早く、早く』
一体どれくらい水の殻に籠っていた頃だろうか、塞がっているはずの耳元で、高い子供の声がした。
『お父さん、急いでよ!』
焦った声で、子供が父親を呼んでいる。それがなんだか懐かしく、聞こえるはずのない声に恐怖心は生まれなかった。
湯の中で、私はそっと目を開く。
目の前に広がったのは、幼い頃に通い詰めたヒーローショーのステージだった。
「あぁ、これは」
そう言ったはずの声は、ぼごぼごと泡となる。
『シュウ、焦らなくても大丈夫だよ』
新たに低い声が聞こえた。自分が呼ばれたのかと振り返ると、私より少し年上の男が、小走りで子供を追いかけている。今よりも髪が黒くて元気そうだが、あれは間違いなく私の父だろう。男が来ているポロシャツは、私が母と誕生日に贈ったものだった。
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