名湯バスツアー

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 母は最後まで病と戦っていた。全身が病に侵され、歩くことも、そして呼吸すらも困難になっていった。けれど母は、最期まで笑っていたのだ。そして笑っていられたのは、痛み止めがあったからに他ならない。  俺は理学部だったし、それに何より自分が人の病を治せるとは思えなかった。けれど痛みを取り除くくらいだったら、感覚を麻痺させるくらいだったら、少しくらいは力になれるんじゃないかと思えた。それで最期に苦しむ人を減らすことが出来るのだったら、その力になりたいと、そう思った。 「そう、だった」   口から零れた泡が、涙を救いながら水上へとあがっていく。  選んだ理由を忘れていた訳では無い。 けれど、ただ覚えていただけだった。まるで他人の記憶のように、誰かの作った映画のように。 それが、色づいた。  向こうの俺は顔を上げ、そしてそのまま流れていった。  浴槽に腕を掛けながら、のぼせた頭で記憶を辿る。  他人にとっては取るに足らない記憶。どこにでも誰にでもあるような記憶の集合体は、けれど私だけのものだった。きっと誰一人として、私と同じ記憶を見ることは無いだろう。   外界から遮断された浴室で、水の世界に潜り、自分だけの思い出に浸る。そうしてやっと私は、社会から切り離した一人の個として自分を見つめることが出来たのだった。  調子がいいだけで上司に可愛がられている同僚、結婚して子供が生まれた旧友、楽しそうに道を行く同年代の集団……比べて比べて比べて、そうして私は自分を見失っていた。  気が付けば、冷め切った心まで温かくなっている。 「……あがるとするか」  明日からはまた社会の一員にならなければならない。  動いた衝撃で生まれた水滴が、湯の中に溶けていった。  けれど以前より苦にならないのは、いつでも掬えると分かったからだ。  いつかまた自分が薄くなった時、私はどんな記憶を見るのだろう。  それが少しでも幸せなものであるように、私は社会の中で足掻こうと思う。  時々風呂で、自分を取り戻しながら。
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