因果律

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――今となっては、誰も知らない。  例えば、植木鉢のせいで歩いて行くことになったあの男は、もしも自転車で出かけていれば、大変な交通事故に遭っていた。  橋の上に立っていた女は、男が声をかけていなければ、世を儚んで飛び降り自殺を図っていた。  駅の男は、電車が遅れずにそのまま乗っていれば、寝過ごした上に大事な書類を車内に置き忘れ、会社に甚大な損害を与えていた。  若いカップルにしてもそう。緊張で早歩きになる男と履き慣れないハイヒールで歩きづらい女。その歩調が合わないように、心の距離も離れていってしまうはずだった。  公園の失恋男は、カップルを見て子供たちに声をかけていなければ、立ち直れずに自棄を起こし、どんどん落ちぶれていた。  子供たちだって、男が一緒に探してやらなければ、大事なリボンを失くして楽しい一日が台無しになっていた。  本来なら、通報を受けてやって来た警察官は、その失恋男を職務質問していたはずだし、その結果、空き巣男を捕まえることもなかった。  犯行前に捕まった空き巣男は、忍び込んだ家で、タイミング悪く帰宅した住人と鉢合わせし、成り行きで強盗事件を起こすはずだった。  ちなみに、その強盗事件の被害者になるはずだった男は、最初に石を蹴った男だったりする。  要するにこれは、“様々なことが起こった物語”であるのと同時に、“様々なことが起こらなかった物語”でもあるのだ。  原因と過程があって、結果はもたらされる。しかし、いわゆる結果とは、すでに起こった“事実”のことでしかなく、拾われずに消えて行った選択肢の、行き着くはずだったその先などは、誰にも知りようがない。そうやって、起こった事と起こらなかった事、それらの重なりの上に、我々の日常という“現実”は成立しているのだ。  一見すると何の変哲もない平凡な日だって、裏を返せば、悪いことが一つも起こらなかった日と言うことができる。あるいはそれも、大変な奇跡の連続の上にあるものなのかもしれないのだ。  事実は小説より奇なり、と言うが、現実はそれより複雑怪奇である。
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