第1章

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――1 「畜生! 畜生!」くそったれ。ヘッドセットの内側を呼気が曇らせる。景色がゆがむのは、まなじりに浮かぶ涙のせいだ。不意にライフルの反動がなくなり、躯が游いだ。弾切れだ。 「リロード!」カートリッジ交換のフォローを求める叫びが震えた。涙声。応える者は既に皆無。判ってる。だが嗚咽が止まらない。 塹壕に背中を預けて眼を瞑った。乱れきった呼吸は浅く短い。こめかみが痺れている。銃を抱くようにして握り締める。指先は冷たく冷えきっていた。ちびりきった股間も。 もたもたしている暇はなかった。倒れた仲間の装備を引き剥がし、ヘッドセットのバッテリーとカートリッジを掻き集めた。迷彩スモックを脱ぎ捨て、ベストの隙間に弾倉をつめこむ。バッテリーはバックパックに。夕暮れが近い。ヘッドセットのバッテリーを新品に交換する。 頭上を吹き荒ぶ掃射の嵐。鉛ともセラミックとも違う。勿論劣化ウランでもない、謎の弾体。奴等は体内で生成した「それ」を、異常な「力」で撃ち放つことができる。カルシウムだかネオチキンの塊。威力はレールガンと変わらない。違うのは弾切れしないということだけ。チートな連中。厄介極まりなし。そもそも人間じゃねえ。 俺は姿勢を低めたまま塹壕の奥を睨んだ。横に転がった戦闘車両が腹を晒している。今いる塹壕を掘ったやつだ。無惨、旧式のキャタピラ。中の連中はとっくにローストされてるだろう。アーメン。十字を切ってる暇はあったろうか。あいにく俺は無神論者。神様なんかクソ喰らえ、だ。 俺は寝そべったまま空を仰いだ。傾きかけた太陽が埃っぽい戦場の空気に霞んでいる。崩れたビルのシルエットが幽かなハレーションを描く。半円形の虹。隣で天を仰ぐ仲間は息をしていない。塹壕は無人。屍の山と俺だけだった。俺は痺れた指で土を掴んだ。仲間の血を吸った土は、重く湿っていた。 南の異国。故郷の空とは色が違う。空気も太陽も、風の匂いも。大異変で四季を失ったとはいえ、日本の空はもっと穏やかなコントラストだった。 死ぬ訳にはいかなかった。軍との契約金は送金済み。俺のIDクレジットは空っぽ同然なのだ。故郷の仲間が飢えてしまう。俺の背中にはみなしご達の命がかかっている。 土を掴んだまま這いずり、戦闘車両の影へと身を隠す。幸い幻獣の群れは進む向きを変えたようだった。敵――クトウルーの幻獣は死んだ人間に興味を示さない。幸いも何もいよいよ独りぼっち確定。孤立しているのは確実。風前の灯火。 銃を支えに立ち上がり、連隊長の遺骸を探した。戦術観測員レベルの情報コードが必要だった。上級回線へのアクセスは軍規違反だが、GPSとマップだけではどうにもならない。都市奪還。ボーナスステージ並の「お気楽」掃討作戦が、どうしてここまで壊滅したのか。右も左も幻獣だらけ、どこに逃げたらいいのかさえ判りはしない。 戦況から推測するに、超級キメラが出現した訳ではなさそうだった。ワイバーンやガーゴイルの飛翔タイプは姿をみせていないし、生体レーザーも降っては来ない。となると、先の侵攻作戦を逃れた中型幻獣が戻ってきたか、地下茎から新たに孵化した一群が伏兵となったかのどちらかだ。 端末を繋いで回線を開く。杜撰にもパスコードはブラウザに記憶済みだった。とんだおマヌケ将校様だ。俺は血に塗れたヘッドセットを睨んだ。死に損なったのはアンラッキーだが、コイツの下で働いてたら命が幾つあっても足りなかったに違いない。戦友には悪いが、これも運ってやつだろう。 IDを奪ったついでにハイエナしたいところだが、そんな時間はなさそうだった。戦線は寸断細切れ。哀れな歩兵部隊は完全に孤立している。つか迷子同然だ。援護なんか期待できっこない。それどころか、場合によっちゃ自陣からの「支援砲撃」でお陀仏って可能性すらある。俺は防疫軍の常套手段を思い出した。そうそうにケツをまくる悪い癖。かつての軍隊とは訳が違う。 身内に殺されんのは勘弁だぜ。かと言って大雑把な砲科の連中に命を預けるのはリスキー過ぎる。奴らはいつも後方で鼻歌まじり。機械任せ、GPS任せの連中にも分かりやすい目印が必要だった。じゃなきゃバラバラに吹っ飛んじまう。時間がなかった。 幻獣の侵攻ルートは西から。こっちの本隊は遥か東の後方だ。一旦北に向かい、街から出て運河を渡る迂回ルートか。真っ直ぐ後退する最短ルートか。選択肢はふたつ。幻獣の群れは扇型に広がりやや南に流れている。砲科の支援を頼むなら南西が最も効果的な筈だ。 俺は奪ったIDで文書通信。当然音声通信はアウト。だが戦場で口がきけなくなるなんてな、よくあるトラブルだ。生き残りの歩兵部隊は自力での脱出指示。2ブロック下がった駅ビルを集結ポイントとする。選択は最短ルートだ。砲科には支援砲撃の要請。駅ビルを外した3ブロックを集中攻撃せよ。手柄はくれてやる。但し、砲撃開始は落日と同時。これは絶対だ。つまり、これから3時間弱が命の期限。タイムリミットって訳だ。 迂回ルートを選択しなかったのは運河のせいだ。やたらと開けた地形。長い橋。幻獣と遭遇しても身を隠せない。追いすがるキメラ達を支援砲撃で狙うにせよ、運河を破壊すればペナルティーは間違いなし。これは侵攻戦じゃない。奪還制圧作戦なのだ。 かつて地上を分断していた見えない線――国境。人類がそれを失ってどれくらいだろう。俺はハイスクールでも真面目な生徒ではなかった。そもそも失ったのは俺じゃない。生まれた時には既に「こんな世の中」だったのだ。特に不都合は感じてない。無学高卒でも防疫軍でなんとか食えてる。進学は諦めるしかなかったが、戦場に出れば官位は関係ない。死は誰にでも訪れる。歩兵だろうが将校だろうが、均しく平等にだ。俺はおマヌケ将校の遺骸を後に走り出した。 闘う意味? 単純明快「食うため」だ。すなわち、これはビジネス。幻獣達から都市を取り戻し、要塞化する。更地にして建てなおす。宇宙コロニー並に強固なシェルと高層化。新たな橋頭堡。地下リニアで繋いだ都市は防疫軍の前進基地となり、新たな利益利権を発生させる。コロニーを新造するより遥かに低コスト。旨い商売だ。つまり防疫軍とは民間企業。国境なき地上を統治するハイパーコングロマリット「ザ・ナイン」の一部門にすぎない。国とか宗教とか、守るべきもののために闘うなんてな時代錯誤。映画館でしか売ってない。 俺のやってることはコンプライアンス違反に違いないが、兵士ってな生きて帰ってなんぼ。ギャラにしたって生きてなきゃ使えない。ま、歩兵はつぶしがきくからな。最悪傭兵にでもなんでも転職してやるさ。 山育ちの俺は、脚力と体力には自信がある。野営や重い装備にだって音をあげたことはなかった。ボロけたアスファルトなんて、陸上トラックと変わりはしない。走りきってみせるさ。俺は唇を吊り上げた。メールボックスには返信が続々。いちいち確認返信はしてられないが、俺の他にも生き残りがいるのだ。見も知らぬ運命共同体。走れよ戦友。俺はヘッドセットの情報ウインドを閉じて笑った。もうコイツは必要ない。 ビルとビルの間を駆け抜け、広い道路は極力回避。かっぱらった弾薬は山ほどあるが、迂闊な発砲は幻獣を呼び寄せる。正直戦闘は懲り懲りだった。 ――! ――!! 散発的な発砲音。次いでグレネードの炸裂。ビルの谷間に爆風が押し寄せる。誰だ。戦闘は懲り懲りだつってんだろ。空気読めよ。 「かかってこいよ。おらあ!」どこの部隊にも必ずいる。馬鹿で愚かな英雄願望。脳筋タイプか引き篭りの食い詰めゲーマーか。街の喧嘩やRPGじゃねえんだ。ハッタリ虚勢もリセットもきかないリアルが判ってない。たちが悪いのは、先陣きって敵に立ち向かう蛮勇が案外部隊を仕切ってしまう現実。いっそ俺が撃ち殺したい。やっちまうか。どうせ誰も見ちゃいない。あ、や、冗談だ。向うは三人パーティー。勝ち目はない。 敵はポリプだった。不定形タイプの中型幻獣。浮遊する肉塊。殺意の悪性腫瘍。ライフルは効き目が薄い。幸い、グレネードが直撃して表皮の半分を焼くのに成功している。触手も動きが鈍い。 「おらおらおらおら!」嵩にかかったリトルヒーローはライフルを乱射。腰だめの姿勢で雄叫び。ジリジリ前進していく。残りの二人もそれに習って前進。馬鹿か。ポリプが動きを止めた今が逃げ時だろが。或いは新兵なのかもしれない。最低でも周り込んで十字砲火とか、虎の巻――歩兵教本読んでねえのかよ。俺はブクブクと泡立つ肉塊に肝を冷やした。不味いマズイまずい。 ――ビシュッ! 膨れ上がった肉塊は新たな触手を発生させ、凄まじい速度で三人を狙った。くそったれ! 俺は三点バーストで触手を狙った。直進する触手にライフルで立ち向かうのは難しい。だからこそフォロアーは角度を変えて、十字射撃を心得なければならないのだ。 「あああああああっ痛ううう!」アスファルトを叩く悲鳴。残念。全部の触手を叩き落とすのは不可能だった。俺の腕じゃあふたつが限界。つかよく当たったな。俺は惚れ惚れとライフルに眼を落とした。胸を貫かれたリトルヒーローはそのまま持ち上げられ、激痛に身を捩った。もがくから傷口が広がる。溢れる鮮血。痛み。最悪の悪循環。 いきなりの反撃に残った二人は腰を抜かしている。持ち上げられたリトルヒーローを唖然と見上げ、なぜこうなったのかを必死に思い出そうとする眼。馬鹿野郎。俺の射撃だよ。運不運は単純に距離の差だ。リトルヒーローは前に出すぎたのだ。俺のせいじゃねえぞ。 舌打ちしながら前にでる。助けてやる義理はないが躯が自然に動いた。ハンドグレネードとブッシュナイフ。どっちが先だったか。 ――! グレネードの閃光。ブッシュナイフの手応え。落下したリトルヒーローを抱きかかえると、俺は腰抜け二等兵二人を蹴飛ばした。「馬鹿野郎。逃げんぞ!」戦闘は懲り懲りだつってんだろ。死んだらどうする。 どこをどう走ったのか。デパートらしき廃墟に逃げ込み、意味なく地下へと潜った。気づけば狭くて暗い個室。便所だった。 「な、なぜ便所に?」やられたリトルヒーローは口がきけない。腰抜け二等兵のひとりが荒い呼吸のまま俺を覗きこんだ。知るか馬鹿。ゴールは駅ビルだった筈なのに。俺が聞きてーくらいだよ。 傷は深かった。切り落した触手は左胸から肩甲骨を貫通している。ビロビロ動いて気味が悪いが、抜けば失血死するのは間違いない。「痛いだろうが我慢しろ」俺は医者じゃねえ。そもそも自業自得だ。リトルヒーローは小さく頷いた。痛みが顔を歪める。「しゃべるな。てめえの血で溺死すんぞ」横にはできない。リトルヒーローは便座の上でぐったり。俺はヘッドセットで酸素濃度を確認した。チャートはやや濃い目。植生は遠いが永らくクトウルー圏にあった都市だからだろう。リトルヒーローのヘッドセットを調整して、呼気循環をセーブする。これで少しは楽になる筈だ。 かつて人類を襲った大異変――ルルイエ浮上。旧イスラエルを襲った大地殻変動。ユダヤやキリスト教、イスラムまでが聖地とした大地は突如として牙を剥き、地軸までもを捻じ曲げた。陥没し引き裂かれたかの地は、地底に眠っていた古代都市を復活させたのだという。そしてそこから幻獣が出現したのだ。 未知の脅威。失われた世界から蘇った生態系。ファンタジーワールドのような怪物たち。魔法のような攻撃力。強力な体組成。或いは本物の神々が復活したのかもしれない。人々は暗黒神話を想起した。ラヴクラフトの怪奇小説――クトウルー神話をだ。あれは予言の書ではなかったか。恐るべきことに、復活した古代都市はやがて本当に浮上したのである。浮遊する大地。空中神殿の如く。いつしか人々は古代都市をルルイエと呼称するようになった。そして未知の脅威をクトウルーと名づけたのである。 地下茎によって増殖する生態は植物的だが、孵化すれば動物のように動きまわる。体内で弾薬を生成し撃ち放ち、生体レーザーや荷電粒子砲並の火力を顕現する様は魔法を通り越して超近代兵器――機械的であるとさえ云える。そしてその骸からは新たな植生と地下茎を産みだすのだ。恐るべき速度と無限の繁殖力。 増殖する巨大植生。クトウルー圏内では酸素濃度が異常に高くなる。そのためのヘッドセットであり呼気循環である。外せばあっという間に酸素酔いで動けなくなる。だが、リトルヒーローにとっては好都合だ。肺をひとつ失ってしまったのだから。心配なのは失血だけだ。俺はレスキューパックからモルヒネを取り出して奴の左肩に打ち込んだ。これでショック死も防げる。しかし不味いことになったな。俺は左腕のハミルトンを覗きこんだ。まもなく砲撃開始の時刻。残りは1ブロックだが、迂回しまくったせいで道がよく判らない。下手すりゃ生き埋めだ。 「腹が減ったな」唐突だが俺は腹をくくった。幸い、ここは便所だ。しかも地下ときてる。柱が多く構造上は最も強固な筈だ。砲撃をやり過ごすには悪くない。「食品売場を見てこいよ。膨れてない缶詰かインスタントならいけるはずだぜ」あと、ミネラルウォーターと酒があればそれもな。俺は腰抜け二等兵に指示を出した。お互い下っ端歩兵だろうが、命の恩人だぜ? 軍曹にでもなった気分で恩を売る。遠慮なく。 「ででで、でも」二人は尻込み。肩越しに背後を伺う素振りだ。ヘッドセットの暗視機能は周囲をグリーンに染める。慣れなければ確かに薄気味悪い。 「そ、そろそろ砲撃が」「いいい、生き埋めになっちゃうんじゃ」しょうがねーだろが。誰のせいだと思ってんだ。砲撃要請した張本人は棚に登って知らんぷり、だ。 「早く行け。酒を探すの忘れんなよ」俺は背中を向けた。煙草が恋しいがヘッドセットは外せない。「末期のナントカだからよ」二人は眼を丸くしたが、こわごわと個室を後にする。ざまーみろ。会心の一撃。クリティカルヒット。俺は八つ当たり的に溜飲を下げて大満足。不安はあるが足掻いたところで致し方なし、だ。 モルヒネがきいたのか、リトルヒーローの呼吸が穏やかになっていくのが分かる。暗闇の個室は静まり返った。俺は個室から出て鏡の前に腰をおろした。疲れた。今日だけで何回死にかけただろう。できればこのまま眠ってしまいたい。 ――2 まどろみかけた俺を、ブーツの足音が叩き起こした。二等兵二人だ。早かったな。にしてもここは敵地のど真ん中。建物の中とはいえ、ベタ足で駆けて来るんじゃねーよ。俺は顔を上げてドアが開くのを待った。 「あ、あの」二人は空身だった。なんだよ、酒はどーした。財布を忘れたとかぬかすなよ。俺は顔をしかめた。「こっち」こっちの不機嫌にはお構いなし。腰抜け二等兵は揃ったジェスチャーで外を指さす。 「飯はどーした」ちっ。あからさまな舌打ちにも、二人は動じなかった。「い、いや。地下街の入口を見つけたもんで」「このままじゃ、アイツ死んじまうし」なるほど。仲間想いなこった。って地下街? 俺はライフルを支えに立ち上がった。二人が外へと先導する。 「デパ地下と地下街がそのまま繋がってるんすよ」ミニライトが柱の地図を照らし出している。どうやらここは街の中心部。地下鉄が三つも交差しているらしい。東西線と南北線が二本。運河をくぐって街の外へ向かうライン。ひと駅離れたオフィス街には別のラインが交差する。地下街は広く深く掘り下げられ、各線を繋ぎ合わせているようだった。 「うまいぞ」GPSと衛星マップじゃ判らなかったが、地下を抜ければメインターミナルである駅ビルに真っ直ぐだ。砲撃の嵐も回避できる。逃げるのに夢中で気づかなかったぜ。俺は踵を返して食品売場へ向かった。二人は相変わらずのベタ足で俺に続く。 「あ、あの。逃げねーんすか」缶詰瓶詰め乾物。酒と飲料ペットボトル。売り場を駆け抜け、凄まじい速度で積み上げる俺に、二人は訝しげに尋ねた。 「後はキッチンタオルとラップ。アルミホイルもだな」止血に使える。俺は二人に向かって言った。「お前らがアイツを担いでくってんなら止めねーけどな。寝具売場行ってクッションになりそうなもんかっぱらってこいよ」俺はもう担がねーぞ。 「な、なるほど」ショッピングカートを担架代わりに使えば、移動はもっと楽になる。怪我人もこっちもだ。階段はあるが三人なら御輿を担ぐのも楽ちんだろう。酒と食い物はついでみたいなもんだ。「急げよ。クッションになりそうならなんでもいい」 キッチンタオルで止血を施し、調理ラップで固定する。ポリプの触手はすでに死んでいて、枯木のような杭にかわっていた。失血して下がった体温を維持するため、怪我人はアルミホイルでグルグル巻き。 「準備できました」二人がカートを推してくる。カゴの上には折りたたんだ布団と毛布。「よし、行こう」リトルヒーローを乗せて出発だ。俺はカートからジムビームを取り出して一口。どうやら当時物の本物らしい。 今なら超・お宝プレミアムの貴重品だ。ヘッドセットをずらして唇を湿らせる。食道を灼く熱い塊。胃の腑はすぐさま燃え上がり、萎えきった気力を取り戻す。ほんの少し。今はこれでいい。暗闇を進むだけの勇気。それ以上は必要ない。 「飲み過ぎんなよ」当たり前だが。俺は二人にボトルをまわす。カートの怪我人にはミネラルウォーターだ。アルコールは血流を促す。あいにくだが我慢して貰うしかない。 タイル貼りの床は平坦で、カートは滑らかに進んだ。無人の地下街に、錆びた車輪とベタ足二等兵のソールが音を刻む。砲撃は始まっていない。 「あんまり略奪のあとがないな」理路整然とは言わないが、避難退避はスムーズだったらしい。「ま、南アジアっすからね。中東戦線崩壊からは時間があったんでしょ」二等兵がボトルを傾けながら応えた。 どうやら俺よりは真面目な学生時代を送ったらしい。マツシロじゃ歴史の単位はギリギリだったっけ。俺は悲惨なハイスクール生活を思い出した。祖父の死後、みなしご仲間の生活費と村の現金収入のため、俺は贋のIDで売り払われたのだ。 慣れない都会の暮らし。偽造IDゆえの不便。田舎者には各種保険と信販がリンクしたIDクレジットは複雑で理解不能。防疫軍との契約金が入るまでは赤字続きだった。それすら送金してしまえば、装備は中古支給品の最低ランク。入隊してからも苦労は絶えない。生き延びるのが精一杯。それは今も当時も変わらない。酒と煙草だけが唯一の愉しみだ。 ルルイエから出現したクトウルーはあっさりアフリカを呑み込んだ。砂漠は密林と化し、限界値を迎えつつあった二酸化炭素濃度を急激に低下させた。当時の先進諸国はどこもニンマリしたに違いなかった。人道支援難民保護。対岸の火事を眺める気分だったに違いない。そのためだったろうか、対応は遅れに遅れた。幻獣の侵攻が中央アジアから南欧へと拡大。気づいた時にはヨーロッパは難民で溢れかえり経済は破綻が続いた。デフォルトの嵐。国体解体。ユーロ圏は壊滅状態に陥った。煽りを食った中国は内戦状態に陥り、三つに分断。 足並みの揃わない国連は加盟国をどんどん減らしたが、戦線から最も遠かった筈のオーストラリアが蹂躙された時点でようやく重い腰を上げた。認識したのだ。これが人類存亡の危機であると。「表向き」無人となったヨーロッパには限定的ながら最終手段たる核が投入された。だが遅かった。すでに中南米はおろか、北米にまで侵攻は進んでいた。国土を蹂躙した最終兵器も、圧倒的な繁殖力には無力だった。 大国だったアメリカですら分断統合を繰り返した。 植生北限を盾にしたカナダシベリアンアメリカ連邦。いち早く要塞化した東部ネオアメリア。海上コロニーに富裕層を吸収した南西フロリダ独立自治区。最終的に落ち着いたのはその三つだ。それだって今は存在しない。 世情は混乱を極めた。歪んだ地軸が更なる気候変動を招き、政治と経済の混乱は加速する一方だった。 難民たちは安全を求めて植生北限を目指し、権力者と富裕層は宇宙を目指した。空っぽになった国は貧困層に呑み込まれ、新しい秩序が生まれては滅んだ。ブラックマンデーどころじゃない。ロストワールド・失われた世界――失われた世紀と後に呼ばれた時代である。 文字どおり人類は楽園を逐われた。アダムとイヴは生態系の頂点から陥落し、繁栄の時代は終わりを告げたのだ。 新しい国ができても、金がなければ運営は覚束ない。混乱した経済状態で新国債なんて買う奴がいるわけがなかった。そもそも国そのものが連鎖破綻を起こし、通貨の価値自体があやふやになったのだ。繰り返す暴騰と暴落。当然税金を納める連中だっていやしない。トップが変わればそのたびに増税のスパイラル。二重三重の徴収に黙って応じる馬鹿は生き残れない。 そうして気づいて見ればスーパーコングロマリット「ザ・ナイン」だけが私腹を肥やし、いつしか国連機関すら牛耳るようになった。コロニーに逃げ込んだ権力者はケツの毛まで毟られたに違いない。少なくとも骨抜きにはされただろう。水どころか空気まで有料なのだ。生殺与奪を握られて逆らう馬鹿はいない。 それでも地上の俺達にはコロニーの生活が憧れだ。幻獣や巨大植生の脅威に較べれば、安全を確約された人工の大地は何物にも代えがたい。防疫軍でもコロニー配備の宙軍勤務は憧れの部署である。戦闘は皆無。輸送とデブリ回収がメインなのだ。畢竟、セレブたちとお近づき――玉の輿のチャンスもあるかもしれない。 癪には障るが「ザ・ナイン」の恩恵なしでは生きにくい世の中だ。要塞化した都市を離れれば未だに難民の坩堝。俺の村がそうだった。要塞都市を運営する民営市局に登録しなければIDカードは貰えない。 カードがなければ消しゴムひとつ買えやしないのだ。 IDカードは信販と保険がセットになっている。市局との労務契約を結べば、未成年者でもクレジットカウントの前借りが可能だ。契約先が防疫軍ならかなりの額になる。命と引き換えの契約だからだ。遺伝子解析や体力測定、健康状態でのオプションサービスもある。俺はそのために売られたのだ。ま、都会に行きたい気持ちもあったし、嫌々売られた訳じゃない。苦労はしたが後悔はしてねーさ。死んだ爺さんにも村にも世話にはなったからな。遺伝子未調整のみなしごなんか野垂れ死ぬのが当たり前。世知辛い世の中だ。くそったれ。 「それにしても」しばらく無事に進むと、腰抜け二等兵が頬を緩ませた。「助かったっす。俺達だけじゃ、マジ死んでたっす」目元が紅いのはアルコールのせいじゃないだろう。 「馬鹿」まだ助かってねーよ。怪我人は死にかけ。俺達は生き埋め寸前だ。「感謝すんのはまだ早い」 偉そうだが、俺は蒸れた股間が不快で仕方がない。散々漏らしたのは隠しとおすしかない。墓場まで持ってくパターンだ。 「この先、崩落してるみたいっすね」先行するもうひとりが振り返った。天井にはヒビ割れ。滑らかだった床には細かな瓦礫が増えている。ほら見ろ。楽観するのはまだ早い。「最悪、線路に降りるしかないかも」 俺は黙って頷いた。だが、砲撃が始まる前に深い坑内に降りた方が賢明なのかもしれなかった。俺達はフロア二つ分しか降りていない。しかし、坑内に降りればカートを担がなければならない。その分移動は遅くなる。「揺れるぞ」大丈夫か? 俺は怪我人に尋ねた。 弱々しいが親指を立ててサムアップ。「今ならなんとか」無茶すんならモルヒネがきいてるうちにってことか。 俺は即断した。「よし、行こう」次の駅で坑内に降りる。全員のヘッドセットが頷いて、互いの面帯を暗闇に反射させた。 ――3 地図と標識を照らしあわせ、無人の改札を抜ける。さらに2フロア下がった。長く深い階段。まるでダンジョンの入り口だ。カートを担ぐ二人はそう言って笑った。よせよ、縁起が悪過ぎる。先行する俺は、ライフルを握り締めた。ゲーム気分では生き残れない。 日の入り時刻は過ぎているはずなのに、支援砲撃は始まっていない。不正アクセスがバレたのかもしれなかった。俺は時計の針が気になって仕方がない。長針の動きはあまりに緩慢。緊張が時間を引き伸ばしているのだろうか。大丈夫。ここまで潜れば生き埋めになっても死にはしない。食料も酒もある。 崩落はごく浅い層でしか起きていないようだった。老朽化というよりは、過去の戦闘被害が年月を経て拡大したという印象。地下鉄坑内は綺麗なものだ。俺は知らなかったのだが、路線沿いには狭いながらも歩道が敷設されていた。軌道整備のためだ。これは嬉しい誤算。カートを担がなくて済む。ガラガラと車輪はうるさいが、消耗しきった俺達にはとにかく有り難い。 歩きながらボトルを回し、失敬したビーフジャーキーをかじった。うるさいカートの音も、馴れれば変にリズミカル。暗がりを進む心細さを忘れさせた。まるで行進曲のように響く。俺達はおもちゃの兵隊。 残念ながらマーチングは長くは続かなかなった。カートの上のリトルヒーローが突然うめき出す。どうした。ビーフジャーキーでも詰まらせたか。振り返った俺に怪我人がヘッドセットを指さす。「く、空気」後は言葉にならない。俺はヘッドセットの表示を確認。馬鹿な。エアコンディションが異常な値を示している。 楽観しすぎたか。排気循環の止まった地下坑内。俺はガスを疑った。ライフルとヘッドセットのチャートを確認。しかし有毒ガスは発生していない。レッドアラートは酸素濃度の方だ。 「射撃モードを最小に絞れ」この濃度ではバレルが保たない。異常燃焼は過熱を起こし、暴発する可能性が高い。パーティーの緊張は一気に高まった。ただの酸素溜まりなら問題ない。だが、植生汚染ならキメラとの遭遇は避けられない。 歩兵になってかれこれ一年。小隊指揮なんてしたことがないし、地下での戦闘なんて前代未聞だ。新兵と負傷者を引き連れ、ライフル一丁でキメラと交戦なんて考えたくもなかった。だが、いくら辺りを伺っても敵の気配はない。俺達は前に進むしかない。恐る恐る。 「いーか。絶対パニックになるなよ」俺は先行するのをやめて何度も念をおした。 「先輩も怖いんすね」カートを囲む形になったせいで安心したのか、二等兵が軽口を叩く。赤信号を皆で渡る安堵。そうじゃねえ。「後ろから撃たれたくないだけさ」俺は嫌味で応戦。「俺が撃つまで絶対撃つな」さっきの戦闘の不味さを簡単に説明する。ネトゲじゃねえんだ。二人は黙った。あと先輩ってのもやめろ。 「――あ!」全員がぎくりと固まった。俺は声を挙げかけた二等兵を蹴飛ばし悲鳴を防いだ。ギリギリセーフ。騒ぐなよ。緩やかにカーブするトンネルの向うが、ぼんやりと光っている。なんだ? こんなの見たことねーぞ。 「ひ、ヒト?」光っているのは奇妙なサークル。燐光を放ちながら回転するリング。その前に佇む人影。「魔法陣?」傍らの二等兵が上手くまとめた。まてまて。ここは戦場。ネットじゃねえ。 声をかけるべきかどうか迷った。奇妙なサークルと重厚な法衣。誰もが見知った魔法使いの姿。テンプレートそのものだ。ただしデカイ。恐らく三メートル近い巨躯。旧式のサイボーグ擬体なのだろうか。魔法陣は眼の錯覚。擬体のライトがコンクリートを照らしているだけなのかもしれない。 「おやおや。ネズミがこんなところにまで」ゆっくりと振り向いた横顔。削げた頬。太い鼻梁と分厚い唇。紛れもない生身の人間である。しかし、その瞳は怜悧冷徹。まるで虫けらを見つめるが如き嫌悪を宿していた。「少し、掃除をしておきましょうかね」 ――! 重厚な法衣が翻る。男の肉が急激に膨張し内側から溢れさせたのだ。「それ」を。 俺達を隔てたのは運だった。文字どおりの命運。男の異貌にライフルを身構えたか否かの差。銃身を引き寄せただけの僅かな動作が俺の命を救った。頭上を行き過ぎた風圧。しかし、それは立ち尽くしていた二人の躯を引き裂いた。あっさりと。 鋭利すぎる斬撃は、強固なカーボニクスプロテクターごと二人を両断した。ヒトが肉の塊と化す瞬間。残酷無比な忌まわの際。声もなく崩れた骸は断末の痙攣を繰り返す。 「あ、あ、あ、あひっ――?」白目を剥いた仲間の遺骸。残った俺達は唖然と顔を合わせた。時間が固まる。リトルヒーローの瞳が震えている。いや、おそらく俺も。 法衣の下から現れたのはヒトの四肢ではなかった。無論サイボーグ化されたそれでもない。うねうねと蠢く軟体。触手というよりは脚に近い。烏賊か蛸か。無数の巨大な吸盤。そのひとつひとつに牙が生え、キイキイと幽き叫びを挙げている。 「があああああああっつ!」トンネルに轟く悲鳴。そのこだまが回転した。再び伸びた蛸足はリトルヒーローを絡めとり、恐るべき速さで法衣の下へと引きずり込もうとしている!  めぎりっ――! 肉と骨が軋んだ。ぼぎんっ! 折れた骨は皮を突き破り鮮血を撒き散らす。リトルヒーローと二つの遺骸は巨大な蛸足に巻き取られ、その形を歪に変化させた。圧壊。耳を覆う不快。ひしゃげた骸を細かな牙が咀嚼する。吸盤ひとつひとつに魔物が棲みついているのだ。でなければありえない。こんな――こんな奇怪な生物が存在するわけがない。俺の脳髄は沸騰寸前だ。 辺りには血の匂いが立ち込めた。脈打つこめかみ。ヘッドセットが薄く曇る。全身が燃えるように熱いのに、指先だけが冷たく凍りついている。俺は、トリガーを引くことができなかった。恐怖。絶望。判らない。ただ、リトルヒーローの断末だけが頭蓋にグルグル。 「ふむ。素晴らしい恐怖だ」蛸足の魔導士は唇を吊り上げた。いつのまに近づいたのか。震える視界の間近。至近。硬直した躯が大きく痙攣した。反射的本能的反応。躍った心臓が胸を押し上げる。増幅された恐怖が惨めな音で喉を鳴らした。股を濡らす感覚が生温かく足元へと流れる。俺は失禁していた。 咄嗟に振り向けたつもりの銃口は、あまりに緩慢だったろう。それは忌むべき蛸足に阻まれた。両手からライフルをもぎ取られ、俺は吹き飛ばされた。衝撃。コンクリートの壁。 戦意喪失。武器と同時にすべての気力を奪われた俺は、ズルズルと地面に崩れた。痛みは感じない。濡れた尻だけがやけに冷たかった。それだけが屈辱。断末への諦観。俺は暗い天井を見上げた。 『――起き伏し、己の死を想え』死んだ爺さんの言葉だ。『起き伏し、また別の死に際を想像してみる。 目覚めた時には既に死人よ。さすれば、な』なんなんだよ。こんな時に。俺は唇を噛んだ。或いはこれが走馬灯ってやつなのか。幻のジジイは笑う。『死に際を汚すことはあるまいて』くそったれ。笑うな。 暗い地下で、小便漏らしてくたばるんだ。死に際もへったくれもねえ。 開き直りにも似た感情が、俺の唇を歪ませる。笑い出しそうだった。格好悪すぎる自分の死に様に。 うねうねと蠢く蛸足を操り、魔導士は音もなく近づいた。「ほう、恐怖を克服したのか。この波は諦めや絶望とも違う。気に入らんな」 「そいつは悪かったよ」やるならさっさとやってくれ。俺は壁を頼りに尻を持ち上げた。既に死人――起き伏しなんちゃらは今の今まで忘れていたが、里で叩きこまれた体術は無駄じゃなかった。ライフルがダメならナイフがある。それでもダメなら爪でも歯でも何でもいい。コイツに一撃喰らわせなくては我慢がならない。 「怒り――とも違うな。貴様達極東の連中は、実に不可解な感情を発露する。ブシドーとやらかね、それは」法衣の魔人は俺を見下ろして呟いた。「正直不愉快だよ」 俺は渾身の力で跳んだ。同時にブッシュナイフを引き抜く。振りかぶる必要はない。一直線の体当たり。喰らえ、刺し違えの一撃――! 重い法衣が翻った。蛸足ではない。筋骨隆々たる両椀。それが内側から法衣を払ったのだ。「くっ!」くそったれ。俺は空中で捕縛された。最後の刃は法衣にすら届かなかった。 「慌てるな。先ほどの甘美な恐怖。それに免じて貴様は地獄へ送ってやろう。ヒトの二重螺旋より逸脱せし、永劫の無限地獄へとな」魔導士は俺の瞳を覗き込む。酷薄な笑みがヘッドセットにゆっくりと近づく。「そして恐怖を垂れ流すのだ。永遠に。我らが暗黒神アザトースへの供物としてな!」 魔導士の躯は人間のものではなかった。俺を捉えた両腕も、近づこうとするその首も、奇怪に歪み膨れて伸びる。だが俺はそのすべてを見ることができなかった。 ――ぞぶり! 激痛。あまりの痛みに視界が裏返る。「あがあああああああ!」自ら挙げた悲鳴も、どこか遠い。胸を抉った魔導士の右手。引き出されたそこには脈打つ臓器。俺の心臓だ。まだ生きた心臓が鮮血を噴き上げている! 「エイワス!」魔導士は心臓を掴んだまま右手を突き上げた。「千の魔導書を納めし、我が下僕よ!」 鮮血は容赦なく法衣を汚す。魔導士は頬に降り注ぐ血糊を舐め上げながら笑った。「エー・デル・ミス・デ・カナルガル――魔導士アレイスター・クロウリーの銘により召喚す。不滅の心臓。悪魔の臓器を錬成せよ! このものを永劫不滅の供物とするのだ!」クロウリーは握り潰した。俺の心臓を。噴き出した血糊がヘッドセットの面帯を叩く。重い――粘りつく音。 視界が急激に狭窄する。暗転したはずの視界は怪しげな光に覆われ、何もかもが遠ざかっていくのを感じる。耳に張り付く哄笑。それだけがエコーを繰り返す。俺は自らの最期を感じ取っていた。光の奈落。そこに落下していくのだ。永遠に――。 ――ブラックアウト。 ――4 荒廃した地上。ヒュプノスは溜め息を漏らした。薄い唇。秀でた額と眉。流れるような光沢の髪は銀色である。優しげな瞳に僅かな陰りが浮かんだ。これがヒトの――人類のもたらした帰結なのか。永い年月をかけた計画は脆くも頓挫し、システムは再起動のためのリセットを開始しようとしていた。 ここはイースの中枢。かつてはオリュンポスと繋がり、神々の神殿と崇められた場所である。 なぜ、イースは我等使徒に自我を持たせたのだろう。何千何万と繰り返された問い。ヒュプノスは暗い瞳を持ち上げた。隔絶された次元の狭間。地上との関わりを断った空間。ここに残るのは彼と弟のタナトス。そして、玉座を護る大帝ノーデンスのみである。 我々もまた、ただのプログラムであったなら――どれほど楽であったか。ヒュプノスの憂いは深い。単純なプログラムであったなら、こうして苦悩することはあるまい。 美しい風景だった。空は青く澄み、流れる水は透きとおっていた。小川のせせらぎ。湖畔の草原。木立を抜けて吹く風は、緑の匂いを涼やかに運ぶ。遠くには切り立った尾根が連なり、白く万年雪を輝かせていた。 ヒュプノスの視線は草木の間を飛び回る自動妖精達へと向けられた。ニンフ――システム保持の下級プログラム。それぞれの作業は特化したエレメンタルに応じている。可愛らしい姿は、創造主たるイースが与えたものなのか。或いはヒトの想像にシステムが対応したものなのか。今では誰も知らない。そして彼等には自我を構成する領域が与えられていなかった。これを羨むべきなのかどうか。ヒュプノスは嘆息した。再び。 繰り返された神々の諍い――ギガントマキアとティタノマキア。それとて神々が意思と自我を与えられたせいではなかったか。ヒトに魅了され、地上に恋焦がれた神々は自ら神殿を捨てたのである。イースに与えられた使命を忘れて。 イース――何者かの手によって狂わされ、いつのまにか失われた記録とシステム。断片化した記録を復元した現在のそれには「大いなる種族」とある。持ち去られた聖典『ヴァ・イー・ヴォル』とともに消去されたイースの意思。永遠の謎となった創造主の意図。なぜ、この惑星に使徒が送り込まれたのかは、誰にも判らなかった。今となっては。 何も判らぬまま朽ちていくのか。行き詰まったシステムをリセットし復元する。出現したクル・ト・ウルは地上を蹂躙し、やがてすべてを白紙に戻すだろう。狂った神々とその血を受け継いだヒトというバグを排除し、ゼロへと回帰させるのだ。新たな混沌――原初神カオスの再来である。 やがて、カオスからは新たな神々が誕生し、この惑星を再構築していくだろう。今度こそイースの意思に沿った世界が創造されるのだ。しかし――。 そこに自らは存在しない。そこに出現するのは新たな『眠りの神』だろう。それはタナトスも同様である。新たな『死を司る神』は、我が弟ではあるまい。ヒュプノスは唇を噛んだ。 残された時間はあまりにも少ない。だが、このまま滅びを迎える気にはなれなかった。堕天した神々が自我を与えられた故であったならば、その自由を与えたのも創造主たるイースである。ほころびを内包したシステムであれば、何度再構築しようとも同じことの繰り返しではなかろうか。 なぜ、彼等は我々を無機質なプログラムとして送り込まなかったのか。ヒュプノスはイースを呪った。そして己の命運をも。 滅ぼすのであれば最初から造らねばよい。完璧を求めるのならば最初からそう造ればよいではないか。 ヒュプノスの苦悩は深い。しかし、それに応えるものは存在しない。彼は背中を丸めて膝を抱えた。あまりに永い思索。永遠に続く自問自答。彼は疲れきっていた。このまま機能を停止し、滅びの日まで眠ってしまおうか――。それは自らの尊厳を守るための自死である。堕天した神々とは袂を分かった。しかし、ここに残った多くの神もまた、自ら機能を停止させたのである。自壊或いは永久休眠――疲れきったヒュプノスには、それが唯一の安らぎとさえ思えるのだ。甘い誘惑。思索の果ての虚無。 まさか、な。ヒュプノスは唇を歪めて笑った。自嘲する彼の姿はヒトのそれとまったく同じであった。背中にたたまれた銀の翼以外は――。 ――5 「――兄上」 うららかな陽射しの中、どれほどの時間が過ぎたのだろう。ここと地上では時の概念が違いすぎる。ヒュプノスはゆっくりと顔を上げた。眠っていたわけではないが、彼の額に銀の前髪が流れた。 「タナトス――!」ヒュプノスは声を震わせた。兄弟神とはいえ似ても似つかない姿。白い輝き。陶器のような質感の仮面と肌。ヒトと同じ容姿のヒュプノスとはあまりにもかけ離れた異貌。身の丈も大きく、関節の位置や筋肉もヒトのそれとは違いすぎた。 「兄上、私は行かねばならぬ」冷徹怜悧なタナトスが、珍しく結論のみを口にした。「ここで――執行形態とは穏やかではないね」ヒュプノスは眉をひそめた。 言外に諌める空気を悟ったのか、タナトスは仮面を開いて素顔を晒した。ヒュプノス同様の銀髪美貌。しかし、甲冑のような体躯には、かえって似つかわしくない。異貌がより際立ったといえた。 「何者かが、輪廻の枠を越えようとしている」タナトスは真っ直ぐな瞳でヒュプノスを見た。「特異点が出現している。これは禁忌破りだ」 「なるほど」ヒュプノスは顎に手をやって頷いた。バグ――ではなさそうだった。タナトスは『死』を司る神である。ヒトが輪廻を逸脱し、存在を重複させることがないように管理する神性。それは宇宙のパラドックスを回避するための監督官である。「そのための執行形態か」 彼等イ・スの使徒には三つの形質が与えられている。存在を定義する魂魄。システムと直結した幽星体――アストラル。そして実体化するために物理構成される光輝体――アウゴエイデス。 今、タナトスが纏っているのはアウゴエイデスの第二形態。『神罰』を執行可能な物理戦闘モードである。 「滅びの日は近い。しかし、私は輪廻を保持するのが役目。その日が来るまで勝手は許さぬ」タナトスは毅然と言い放った。 ヒュプノスは逡巡した。ギガントマキアとティタノマキア。二度に渡る闘いで大地は死んだ。システムの根幹をなすガイアは死に、地上に張り巡らされたレイラインは断絶した。神々の力の源であった「見えざる者共」は枯渇し、残された神々からも力を奪ったのである。輪廻を逸脱させるような力が、地上に残されているとは考え難かった。 「或いは、タガが弛んでいるのかもしれぬ」タナトスは思案に顔を曇らせた。それがヒュプノスの疑念に答える形になった。「冥府の王も不在となって久しい。かつての――あのリングのような抜け道が存在しても、管理修復する者がいない」 「リングか」ヒュプノスの声が僅かに掠れた。冥府の奥底に封じられた神々。禁忌を破った堕天の末路である。ここと同じく隔絶された次元の狭間にあり、地上とは直接つながることができないように座標を固定された空間。永久凍土に封じられたコキュートスは、遥か太陽系外縁部に位置しているはずだった。「まさかな」ヒュプノスの眼には暗い影。 封じられた神々。コキュートスで変質した神は、悪魔或いは魔神と呼ばれた。かつて、隔絶した空間に穴を穿ち、それを地上で使役した者がいたのである。古代エルサレムの王――ソロモン。『ソロモンの指輪』或いは『ソロモン七十二柱』の伝説といえば誰もが聞き覚えがあろうか。 「冥府の穴は閉じられた。ノーデンス様が封印なされたのだ――」今更、魔神の復活などありえない。ヒュプノスはそう言いながら不安に囚われ始めていた。ソロモンの使役した者達はエルサレムに神殿を建築するために召喚された。そして、その地からレ・ライエは復活したのだ。本当に関係がないと言い切れるだろうか。ヒュプノスは言葉に詰まった。自分の言葉に自信が持てない。 「滅びの日は近い、か」確かにそうだ。ヒュプノスは思考の向きを変えた。ならば、なぜ滅びなくてはならぬのか。それを確かめるのも悪くはない。イ・スの意思。我々を送り込んだ意図を。「滅びが近いからこそ、見えてくる真実もあるやもしれぬ」彼の独白にタナトスは怪訝な顔だ。真実か――我ながらヒトのようなことを言う。ヒュプノスは苦く笑った。 「良かろう。但し、力の執行には充分な注意が必要だ」続く言葉にタナトスは眼を円くした。「私も行く。地上は久しぶりだ」 ヒュプノスは黙って銀の翼を開いた。大きく。舞い散る羽毛と光の粒子。いつしか円筒型をなした光は、兄弟神を包み込みながら回転する。まるで渦を巻く花吹雪のように――。 光の渦が収まった時、そこに男神二柱の姿はなかった。 ――6 なぜだろう。俺は死んでいなかった。夢だったのだろうか。そうか。ここはあの便所で、俺は二人を待つ間に眠りこけたに違いない。ヘッドセットの面帯が砂に擦れる。シールドのアクリルが小さく軋んだ。濡れた股間が情けないリアルを伝えている。間違いない。現実は無情。まったくなんて夢だよ。悪夢にも程がある。俺は両腕を突っ張って躯を持ち上げた。こわばった関節があちこちで軋んだ。 「――しぇ、しぇんぱァい」暗闇に三人の声が震えた。困惑。いや何かに怯えるような響き。だが、俺にはふざけているようにしか聴こえなかった。 「先輩はやめ――」ろって言ったろ。俺は言いかけて背中を震わせた。血塗れの両腕。面帯にこびりついた黒い飛沫。夢のままだ。そして――!  恐る恐る下ろした視線の先には、剥き出しに鼓動する心臓。いや、心臓を模したなにものかが脈打っている。肋骨は左右に押し開かれ、牙のような鋭利を晒していた。 「な――!」声が上ずった。なんなんだよ、これ。痛みはない。だが触れる勇気はなかった。怪我じゃない。だが、まともでもない。それだけは確かだ。俺は暗がりへと顔を向けた。助けを乞うべく。 「しぇんぱァい」三人の姿はなかった。いや。三人はそこに居るのに、三人ではなくなっていたのだ。蠢く肉塊。三人はひとつに撚り合わされていた。崩れた粘土細工のように。 「う、撃ってくだしゃい」肉塊――三人は訴えかけた。「こ、殺ひて」 おぞましい姿に変貌した彼等は、ゆっくりと俺に近づいた。軋む車輪がコンクリートに錆びついた音を転がす。俺は血の気が引くのを感じた。恐怖。歪んだ肉塊はショッピングカートごと練合わされている。三対の腕を不器用に使い、彼等はカートを進めた。「ば――」俺は慌ててその単語を呑み込んだ。化け物。それは地上を蹂躙した幻獣にこそ相応しい。こいつらは人間だ。ヒトなのだ。その形を奪われようとも。 俺は立ち上がった。あれは夢じゃなかった。それともまだ夢の続きなのか。言いようのない感情を持て余し、俺は立ち尽くした。 「ば、馬鹿言ってんじゃねーよ」俺は頭を振った。「動けるなら諦めんな」本部に戻れば助かる望みはある。脳髄が生きていればサイボーグ手術だって可能だ。擬体化には費用がかかるが、強化型なら防疫軍で稼ぎ放題だ。退役するまでにボーナスを貯めれば、生体義体を手に入れることだって十分可能だろう。カラクリ頭は不便だろうが、我慢は少しの期間で済む。「諦めんなよ」 「しぇ、しぇんぱい」僅かな希望だが、可能性を提示された三人は声を震わせた。 「一緒だろ」俺だって不安なんだ。この心臓はまともじゃない。どう見たって。「一緒に帰ろう」 「つまらん! つまらんな」暗がりから響いた声。悪夢の続き。闇から溶け出すように姿を現したクロウリーは嘲るように頬を歪めた。「なんだそれは」 「絶望するシーンだろう。今は」奴は大仰に両腕を開いて言った。「我輩の演出が台なしである」 演出だと? 俺は怒りに躯が熱くなるのを感じた。しかし法衣の魔人は両腕を開いて前に進む。俺達の真ん中。 「エイワス!」魔人クロウリーは虚空に向かって呼びかけた。どういう仕掛けか光が集中し、クロウリーを捉えて止まった。まるで演劇場だ。「これでは我輩が主役ではないか」 「知るか」応えたのは巨大なモノリス。灰色に朽ちた墓標のようなスレートである。「我は貴様の召喚に応じた式を起動したまで。帰結が気に入らぬのは術者の力量というものだて」鋼鉄の鎖に巻かれたスレートは流暢に喋った。いや、モノリスには奇怪な人面が貼り付けられていて、そいつが喋ったのだ。 乱雑な縫い目。皺枯れた皮膚が引きつり、あちこちに奇妙な皺と影を刻む。ひねくれた唇からは、痩せた歯茎と乱れた歯列が覗いた。不吉極まりない笑み。しかし両眼は縫い合わされ、まぶたは開いていない。 「そやつは既に死人よ。我と同じ永劫の鎖に囚われた、な」エイワスはしたり顔で語った。「貴様の言ったとおりになっておろうが。我は千の魔導書。常に最高の錬成を目指す」 モノリスと見えたのは間違いだった。岩でもコンクリートでもない。巨大な古本――魔導書に違いない。鎖は封印。しかし貼り付けられた人面は何なのか。どうやって生きているのか。判らない。分からないことだらけだ。 「道具は揃えた。しかし舞台が気に入らぬとあれば、やはり演出家がヘボということであろう。まして、残り少ない魔神の臓器まで使ったのだ。ローゼンクロイツに責められるは、どちらであろうな」 「む、ぐ」クロウリーは言葉に詰まった。どうやらこいつらは主従というわけではなさそうだった。下僕とか言ってたが、少なくとも主導権はクロウリーにない。完全には。 「で、では、このまま舞台を進めるしかあるまい。不本意ながらな」やり込められたクロウリーは俺達に向き直った。「迂闊に自我を残したが失敗であったか。絶望と狂気が足りぬ。ならば演出は変えず、出演者に変わってもらおうか」 ――! 法衣が翻った。隆々たる筋骨。そして無数の触手――蛸足。右腕には宝杖。左には長剣。 触手たちもまた奇怪な宝具を絡め持つ。閃光。眩い光が輪となり、クロウリーの背後で方陣を描く。まるで後光のように――。 「ああああああああああっ!」「しししししししししぇんぱァい!」「こここここここ怖ひぃぃいい!」三人の悲鳴が暗闇に響いた。衝撃。俺は応えることができなかった。頭蓋と胸に凄まじい圧迫を感じた。何かが、何者かが内側で暴れている。その衝撃と不快に俺は歯を食いしばるしかなかった。 「不死の心臓を与えられたならば、その肉と骨は不滅」クロウリーはエイワスに笑いかけた。「つまり、朽ちることなく再生し続ける〈ウロボロスの尾〉であろう」 「恐怖の根源とは、な。生態系に根ざしたものなのだよ。弱者は捕食される。多くは生きたままな。ライオンはインパラにとどめを刺したりはしない。生きたまま喰らうのだよ。それが強者の快楽であり、自然の摂理なのだ」 「生態系の頂点から滑り落ちた人類は、それを自覚していない。だが、その根源たる恐怖こそ、この世界の存在意義。原初神アザトースがこの宇宙に知性を創造した動機であろう」涙で景色が歪む。俺にはもうクロウリーの姿が見えなかった。「ヒトの知性は動物的本能を超えるか? 超えはしない。残念ながらそれはヒトの奢りであろう。知性はそれを増幅するのみ。痛みを想像し、共感し、群れとしての体験として並列化することでヒトは社会性を獲得したのだ。群れとして生態系から逸脱せしヒトは、個としては自然に立ち向かうことすらできぬ〈禿げた猿〉よ」 「さあ、自然の摂理に従い、生きたまま喰らいあえ!」魔人クロウリーは哄笑した。「うはははは。そうだ永遠に殺しあうのだ。殺しあい互いを喰らうのだ。糞尿と悔恨にまみれながら永遠にな!」 俺を押し包んだ暗闇にクロウリーの歓喜が響いた。「そして、昇華された恐怖と絶望を、吾輩は至高神アザトースに捧げるのだ!」 「なるほど」エイワスの嗄れた笑いが重なった。「錬成失敗を、そのような手段で有効化するとは」 俺にはもう二人の姿が見えなかった。だが、新たな魔導が起動する気配だけは感じられる。不吉で禍々しい気配。俺は悶絶した。 「流石は我が主よ。恐怖を精製する永久機関――無限地獄を錬成しようとはな」 ――! 凄まじい力が辺りを圧倒した。肉が、骨が、ひしゃげて撚り合わされる。それは俺と二等兵達三人を同時に襲った。 こらえられない衝動。猛烈な〈それ〉に躯の細胞ひとつひとつが雄叫びを挙げている。『――喰らえ! 殺して喰らえ! 生きたまま喰らえ! 咀嚼し破壊せよ!』猛烈な欲求。毒々しい欲望。 破壊本能。いや猛烈な食への衝動が、俺の全身を燃え上がらせていた。 ――7 爪と牙。それはヒトが動物だった名残だろうか。ドロドロの殺戮絵図。そのど真ん中で俺は考えた。僅かに残った自我。埋もれ火のように幽き光。 爪を喰い込ませ掴み合い、牙で相手の肉を破る。顎を振るって引きちぎり、迸る血糊で喉を潤す。その味はあまりに甘美だった。同時に襲う痛みと恐怖もまた快楽。回りつづける快感の車輪。サディズムとマゾヒスティックの輪廻。まるで無限螺旋だ。 あまりにも原始的な闘い。喰らい喰らわれるという混沌。俺達は繰り返す。永遠の食物連鎖。 逃避――恐怖と絶望の連鎖から、俺達は逃避しているのだ。現実からの逃避。或いは忘却。 捕われたインパラにも同様の慈悲がくだされているのかもしれなかった。死にゆく定めの瞬間。恐怖と絶望を快楽に置換する慈悲。神様ってのは本当にいるのかもしれない。俺は、初めてその存在を受け入れる気分になっていた。 幾筋もの黒煙が立ち昇り、空を汚す。眼下に広がる光景にヒュプノスは嘆息せざるを得なかった。戦場。イ・スの使徒が慈しみ、育んだはずの人類。ヒトの終焉。断末の足掻き。様々な想いが胸をよぎる。 「ずいぶん様変わりしたな。ヒトの戦は」傍らのタナトスは呟くように言った。致し方あるまい。あれから何年――いや、何万年を経たのか。ヒュプノスは小さく頷いた。 相手はイースが呼び起こした殲滅プログラム。生態系とか自然の摂理とかいったものとは無縁。ただひたすらに増え、ヒトの生存圏を侵食するためのモノなのだ。ヒトを駆逐すれば自滅する。 豊かな自然に抱かれ、この惑星はしばしの眠りにつくだろう。 空中に浮かぶタナトスとヒュプノスは、翼を開いてはいない。翼を与えられてはいるが鳥のように羽ばたく必要はないのだ。ヒュプノスは特異点を探して眼を凝らす。しかし特別な異変は関知できなかった。 「地下――か?」執行形態のタナトスと自分とでは視えるものが違う。僅かに残ったガイアの霊脈。レイラインを使えば強大な魔導式を駆使可能かもしれない。ヒュプノスは弟神にサーチを促す。 「――馬鹿な!」タナトスは背中を震わせた。「不味いぞ兄上。特異点どころではない。霊子量が飽和点を超えつつある」 霊子量飽和――? 本当にタガが弛んだのかもしれなかった。いや、タガが外れなければ起き得ぬ現象である。ヒュプノスは咄嗟に肘を持ち上げ眼をかばった。「離れろタナトス!」 地中から真っ直ぐ天を穿つ直線。それはすでに不可視領域の現象ではなかった。凄まじい力が大気を圧し、雲が渦を巻く。何かが――なにものかが、この地を覆い尽くそうとしている! ヒュプノスは身を震わせた――黒々とした予感に。 ヒトの目には映らない異変。だがヒュプノスとタナトスにはそれが知覚できた。レイラインと未知の粒子によって機能する神格。それ故の視覚聴覚である。いや、その感覚はヒト種とはまったく違う。彼らにとっての『世界』は、別の有り様を露呈する。 地底から天を衝いた光。その中心に何者かが視える。そしてそれは遥かな太古――神々の闘いで封印されたはずの魔神。堕天した使徒。古き神々と同じ波動を放っているのだった。 「有り得ない」ヒュプノスはタナトスを連れて上空へと逃れた。コキュートスと現世を繋ぐ門――ゲートは閉じられたままである。時間すら凍りつく無限地獄。封印された神々が外へ出ることはかなわない。 「だが兄上」タナトスは毅然とした声でいさめた。「これは現実だ」どういう機能なのか、タナトスはモニタ画面のような透過パネルを次々立ち上げて見せる。霊子量飽和――この宇宙に於ける物理限界を突破する寸前。これは危機的な状況だった。理由はともあれ、この波動を放つ者は排除しなければならない。 「行くぞタナトス」ヒュプノスは白磁のような仮面を発動した。タナトスと同じく執行形態。戦闘モードへ移行したのだ。蛍光色の燐光が輪を描き、双子の二柱を加速させる。 ――ギュオオオオオォォォッ! 遠目には一筋の光に視えたそれは、凄まじい閃光の渦だった。大気を圧し収束する光の束。そのエネルギーは圧倒的なものだった。もはや暴走寸前。いかな神格でも自己崩壊を起こしかねない霊子量である。 「くっ!」果敢に飛び込んだヒュプノスとタナトスだったが、さすがに苦悶が漏れた。白磁のような甲冑ですら加熱して赤く染まる。 「に、ニンゲン?」ヒュプノスは声を上擦らせた。光の束の中。その渦の中心を認知したのだ。膨張と圧縮。恐るべきエネルギーの脈動。そのど真ん中である。有り得ない光景だった。 「いや」タナトスはヒュプノスより知覚の精度を上げていた。「ヒトではない」 「ヒトの内側に埋め込まれた『何か』が、この霊子量の正体だ」 だが、そんなことがあるだろうか。ヒュプノスは首を傾げた。この霊子量を受け止める物理強度をヒトが持ち得るとは思えない。 「だが現実だ」普段は無口なタナトスが、今日は口数が多い。どうしたことか。ヒュプノスは頼もしくも不安だった。「私はかつて、これによく似た現象を視たことがある」タナトスは哀しみの波動を隠さなかった。なるほど。ヒュプノスにも思い当たる節はある。 「イ・スの降臨、か」ヒトではないヒト。使徒ではない上位構造体。使徒を造りし存在。だがその真偽を確かめることはできない。聖典は失われたのだ。世界樹の中枢と共に。「はたまた終焉の獣――ビーストの出現か」 圧縮と開放。或いは崩壊爆発と収束吸収。霊子脈動の原因は相反する現象の繰り返しである。霊子飽和ギリギリを行ったり来たりの危険な均衡。いつメルトダウンを起こしてもおかしくない。 「可視化のレベルを上げる」ヒュプノスは全知覚機能を展開した。認知した全ての現象をタナトスに送る。 「呑み込もうとしている?」すべてを? ヒュプノスは再び声が上擦るのを感じた。崩壊寸前の霊子のみならず、辺りの何もかもを浸食して取り込もうとする動き。まるで咀嚼と嚥下。脈動はそれによって発生しているのだ。 「やはりビーストか」光の中心。生命反応は複数である。だが、強力な個体が全部を吞み込み吸収しようとしている。ヒュプノスは突き進むタナトスに向けて『力』を注いだ。これ以上の接近には防御が必要だ。でなければ彼も渦に引き込まれてしまうだろう。 だが――。 ヒュプノスは同時に思った。何という悲しみの波動だろう。この獣は泣き叫んでいる。哀切をおびた咆哮。まるで孤狼の雄叫び。月に――いや天に向かって喉を嗄らす慟哭。 「この感情だ」タナトスはヒュプノスと思考を共有した。「この哀しみが、彼をヒトたらしめているのだ」 「辛うじてな」ヒュプノスは頷く。だが、救うことはかなうまい。 「救う?」タナトスは不思議な顔をした。白磁の仮面の下で。「そうか」タナトスは独り笑った。思考を共有したためにどこからが独自のものなのか判別しにくい。だが、彼は悟ったのだった。なぜ此処に引き寄せられたのか。自分がなにをしたかったのかを。 「やってみよう」かつて失ったもの。かなわなかったイ・スの降臨。イ・ス=ヨシュアは死んでしまった。復活することもなかった。タナトスたち『使徒』の存在意義も失われたのだ。あの時できなかったことを成し遂げよう。タナトスはそう思った。 『彼』の体内では幾つかの器官が唸りを挙げていた。通常の感覚では知覚できない霊的器官。いわゆる『チャクラ』と呼ばれる霊的概念。そのすべてがフル稼働していた。特殊な呼吸法や瞑想によって自らの内的宇宙を概念化しなければ、それは機能しない器官である。つまり『ない』のと同じだ。 だが、古典宗教やヨーガ。或いはそれらをルーツとする古武術では、術者の内なる力を体外に発露すべく研鑽する技術がある。ともすれば対峙する相手のエネルギーまで利用し、物理を超えた破壊を示現することさえ可能である。 『彼』が故郷でたたき込まれたのは、そういった次元の技であった。孤児が生き残るために必要だったといえば、この時代がどれだけ逼迫しているかが判るだろう。 幾つかの偶然がこの事態を招いていた。魔導士クロウリーの魔術。エイワスと呼ばれた魔導書。埋め込まれた永久機関『不死の心臓』――。 『彼』は喰らった。自らが救った命を。ドロドロに溶けあった肉と肉。混濁した意識。ヒトの形を失い不定形キメラと変貌したなかで、彼は自我だけは喪失しなかったのだった。それはタナトス達が認知したままの感情。人外の獣へと堕した哀しみがそうさせたのだった。   ――1 「畜生! 畜生!」くそったれ。ヘッドセットの内側を呼気が曇らせる。景色がゆがむのは、まなじりに浮かぶ涙のせいだ。不意にライフルの反動がなくなり、躯が游いだ。弾切れだ。 「リロード!」カートリッジ交換のフォローを求める叫びが震えた。涙声。応える者は既に皆無。判ってる。だが嗚咽が止まらない。 塹壕に背中を預けて眼を瞑った。乱れきった呼吸は浅く短い。こめかみが痺れている。銃を抱くようにして握り締める。指先は冷たく冷えきっていた。ちびりきった股間も。 もたもたしている暇はなかった。倒れた仲間の装備を引き剥がし、ヘッドセットのバッテリーとカートリッジを掻き集めた。迷彩スモックを脱ぎ捨て、ベストの隙間に弾倉をつめこむ。バッテリーはバックパックに。夕暮れが近い。ヘッドセットのバッテリーを新品に交換する。 頭上を吹き荒ぶ掃射の嵐。鉛ともセラミックとも違う。勿論劣化ウランでもない、謎の弾体。奴等は体内で生成した「それ」を、異常な「力」で撃ち放つことができる。カルシウムだかネオチキンの塊。威力はレールガンと変わらない。違うのは弾切れしないということだけ。チートな連中。厄介極まりなし。そもそも人間じゃねえ。 俺は姿勢を低めたまま塹壕の奥を睨んだ。横に転がった戦闘車両が腹を晒している。今いる塹壕を掘ったやつだ。無惨、旧式のキャタピラ。中の連中はとっくにローストされてるだろう。アーメン。十字を切ってる暇はあったろうか。あいにく俺は無神論者。神様なんかクソ喰らえ、だ。 俺は寝そべったまま空を仰いだ。傾きかけた太陽が埃っぽい戦場の空気に霞んでいる。崩れたビルのシルエットが幽かなハレーションを描く。半円形の虹。隣で天を仰ぐ仲間は息をしていない。塹壕は無人。屍の山と俺だけだった。俺は痺れた指で土を掴んだ。仲間の血を吸った土は、重く湿っていた。 南の異国。故郷の空とは色が違う。空気も太陽も、風の匂いも。大異変で四季を失ったとはいえ、日本の空はもっと穏やかなコントラストだった。 死ぬ訳にはいかなかった。軍との契約金は送金済み。俺のIDクレジットは空っぽ同然なのだ。故郷の仲間が飢えてしまう。俺の背中にはみなしご達の命がかかっている。
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