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数日後、おれは娘夫婦の家を訪ねた。菜月に着付けを教わるためだ。「夏帆が手を怪我したから着付けを手伝わないといけない」ということにした。突然上手くなって夏帆を驚かせたいからおれがここに来たことは言うなと念を押す。
菜月を練習台に何度も繰り返した。それっぽくは出来るようになった。
「別にお父さんが完璧にできなくても細かいとこはお母さん自分でやるだろうし。これくらいできれば合格じゃない?」
とのことだ。
またある日、おれは夏帆を料理教室に誘った。
「どういう風のふき回しですか。雨が降るのであんまり珍しいこと言わないで下さい」
「定年なって暇でさ。なにかやりたいと思って。どうせなら一緒に習わない?」
「そうですね。私もレパートリー増やしたいと思ってたので、行ってみましょうか。それにあなた、私より絶対長生きするって宣言してましたもんね。ちゃんとしたの作れないと私がいなくなった後困りますからね」
こうしておれはどうにか着付けと料理ができるようになった。
もしも夏帆が着物の着方を忘れてしまっても、おれが着せてやれる。着物姿の夏帆の笑顔が頭に浮かんだ。
もしも夏帆が料理を作れなくなってしまっても、おれが食べさせてやれる。おいしい、と嬉しそうに食べる夏帆を想像する。
それだけじゃない。
夏帆ができなくなったことは全部おれが代わりにやればいい。
夏帆が忘れてしまったことはおれが覚えておく。
夏帆がどこかに行ってしまわないように、昔のように追いかけて手を繋ごう。
夏帆が子どもたちのことをわからなくなってしまっても、菜月や賢一にとっては美人で料理上手で時に厳しく時にユーモア全開な最高の母親であり続けるだろう。
そして。
もしも夏帆がおれを忘れてしまっても。
おれが夏帆を愛し続けるから大丈夫だ。
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