マリア

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 そして今日、私たちの誕生日に、ついに妻は産気づいた。私は休日を妻と共に自宅で過ごし、昼食を終え、大きく突き出たお腹で足元まで手が届かなくなってしまった妻の、足の爪を切っている最中だった。妻は、まるく柔らかな爪をしている。爪切りの刃が素肌に触れてしまわぬよう、私は注意深く足先をすくった。そうやって俯く私の頭上で妻が、あ、と声を出し、そして、破水しちゃったみたい、とこともなげに呟いた。牛乳きれちゃったみたい、それと同じくらい、特別なことなんてないような言い方で。  私は慌てて、蒼褪め、冷や汗が噴き出し、陣痛が先だと言っていたではないか、と、そんなつもりはなかったのに妻を責めるような物言いになり、更に慌てて、ごめん、と謝罪した。妻はその謝罪については何も言わず(聞こえてもいないようだった)、破水が先なんてよくあることよ、と大きなお腹を抱えて立ち上がった。 「おい、立ち上がったら、こどもが」 「大丈夫、そんなにすぐには出てこないわ」  妻は落ち着いていて、落ち着きすぎているくらい落ち着いていて、きみも僕も、出産なんてものは、こんな大事件ははじめてだよな、と思わず確認したくなるほどだった。それほどまでに、冷静でいて、堂々としていた。それに比べ私はいつまでもそわそわと、びくびくと、電話で産院からの指示を仰ぐ妻の後ろをついて歩き、顔色を窺い、やるべきことが見つからず、これから人生でもっとも大切な仕事を控えた妻の背中を必死に追いかけた。     
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