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妻に、タクシーを呼んで、と言われたときには、些細でも仕事を与えられたことにほっとし、無意味に張り切り、妻がこれから出産なんです、と話す必要のないことまでを電話受付の担当に伝えた。それはそれは、おめでとうございます、と言う受付の女が微笑むのを耳で感じ、恥ずかしさに顔に熱が集まるのがわかった。妻はそんな私を見て笑っていた。
ものの数分でやってきたタクシーに乗り込み、妻は用意周到にシートの上にバスタオルを敷きそれに座った。お腹は、と訊くと、平気よ、お利口にしているわ、と返された。妻の足元にはボストンバッグが積まれていて、いつの間に準備していたのか、中には入院道具一式が綺麗に詰め込まれていた。妻がそんなものを持って家を出ていたなんて、少しも気が付かなかった。頼りない夫だ。不甲斐ない気持ちに顔をうつむけた。
「きみは随分と落ち着いているね。僕はもう、緊張して心臓が痛いよ」
つい、そう洩らすと、妻はおかしそうに肩を揺らして、現実味がないだけよ、と言った。
「これから、私が赤ちゃんを産むのよ。もうすぐ私たちは、ふたりから三人になるの。そんな大仕事を、私がしちゃうのよ、この私が。それって信じられる?」
茶目っ気たっぷりに肩を竦める妻に、信じられるよ、と私は言った。信じられるよ、信じているさ。
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