マリア

5/13
前へ
/13ページ
次へ
 おかあさん。だれのことだ、と考え、妻のことだ、と思い至る。そうだ、それならば私は、おとうさんだ。おとうさん。心の中で呟くと、胸は熱く緊張し、妻と握り合って汗に濡れた手を何度か握りなおした。そうか、きみは、きみたちは今がんばってくれているのか。がんばれ。全身を震わせながら、私はごくりと唾を飲み込んだ。  助産師はふたたび下肢を覗いて、陣痛室を去った。妻とふたりきり残されて、途端に不安に襲われた。どうして出て行ってしまうのだ、妻がこんなときに。助産師の背を追い、閉じられた扉を眺める。私は、どうしたらいいのだ。だれに訊くわけにもいかない。試されている気分だ。妻は意識的に大きな呼吸を繰り返し、体勢を変え、握っていた私の手をついに振り払った。 「だ、大丈夫か」 「大丈夫よ」  それは反射的にでた返事のように感じられた。思えばこの状況で、大丈夫か、などという質問もおかしなものだ。これから人間を産みだすというのに、大丈夫でいられるはずがない。父親である自らの無力さなど痛感する余裕もなく、苦しげに呻く妻の背をさするので精一杯だった。  しばらくして助産師が夕食を持ってやって来たときには、情けないほどほっとした。気付けば時刻は十八時をまわっている。夕飯食べられますか、と訊ねる助産師に、なんて暢気なことを、と感じはしたが、しかしせっかく持って来てくれたのだから、と妻に食事を促せば、無理よ、と一蹴された。 「少しだけでも食べられませんか。今度はいつ食べられるか分からないから」     
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加