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引っ越してから一月も経たぬうち、恵は僕の家を探し当てたのである。
あの時の恐怖は、今も忘れていない。仕事が終わり家に帰ったら、目の前に恵が立っていた時のことを――
「お帰りなさい。ご飯にする? お風呂にする?」
まるで新妻のように、エプロン姿で僕を出迎えた恵……本当に嬉しそうな表情であった。
「お前、ここで何してんだよ」
僕は、そう言うのがやっとだった。すぐに警察に電話すべきだったのだが、とっさに頭が回らなかったのだ。
しかし、恵は全く怯まない。微笑みながら言葉を返す。
「だって、あなたのいるところが私の家だもん。だから……来ちゃった」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが弾けとんだ。
僕は無言のまま、恵を殴りつけた。女性を殴ったのは、この時が初めてである。いや、そもそも人を殴ったこと自体が初めてであった。
生まれて初めての、他人に対する暴力。だが、それは予想外の結果をもたらす。スマートな体型の恵は、ひ弱な僕のパンチを浴びて後ろに倒れた。
結果、テーブルの角に頭を打ち、死んでしまったのである。
幸いなことに、僕の実家は精肉工場を経営していた。父親らが動物を解体していく様を、僕は幼い頃から見ている。
僕もまた、同じことをした。恵の死体を実家の工場に運びこみ、バラバラに切り刻んだのだ。骨は細かく砕き、肉を削ぎ落とす。皮膚や肉はビニールに詰め、海へと流した。常人なら吐いてしまうであろう作業だが、僕は淡々とこなした。人間の肉も動物の肉も、大して変わりはしない。
あとは、魚が全てを処理してくれる。
残酷だ、と思うだろうか? だが、僕にはそうする以外になかった。あんな狂った女のせいで、殺人犯として残りの人生を過ごさなくてはならない……そんなのは御免だ。
死体さえ処理すれば、ただの行方不明である。警察に調べられたりはしない。
確かに、恵は死んだはずだった。その上、死体を切り刻みバラバラにして海に捨てたのだ。生きていられるはずがない。
なのに今、僕の目の前には彼女がいる。その顔には、傷一つない。いつの間に盗んでいたのだろう……僕の服を着て、ほこりだらけの暗い屋根裏で照れくさそうに笑っている。
「もう、サプライズのつもりだったのに……見つかっちゃったね」
恵は、そう言って上目遣いに僕を見つめた。てへっ、という声が似合いそうな表情を浮かべて。
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