嵐を越えて飛ぶ鳥

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 スタンウェイのグランドピアノから放たれた最後の音がホールに余韻を残して消えた。およそ四百の聴衆が存在するのにもかかわらず、息を呑む動作が空気を震わせていると錯覚するほどの静寂がその空間に満ちる。それを割るように一つ二つと拍手が沸き上がれば、喝采と共にあっという間に場内を揺るがすものへと変わっていった。  鍵盤から指先が遠退いて奏者がそのまま立ち上がり、万雷の拍手を浴びながらステージ前方へと向かう。一歩足を進めるごとによりいっそう強くなる。舞台中央で立ち止まりお辞儀をしたときにそのボルテージは最高潮に達した。  次もその後も聴かずとも一位はもう決まりだ。この場にいる誰の頭の中にもしっかりと絹田悠二の名は刻まれている。  演奏中は息を飲んで弟の勇姿を見守っていた成司もあっという間に背が伸びて次々に視界を覆いつくす観客たちに負けじと立ち上がった。  壇上の彼が頭を上げ右から左へと首を動かして観客の顔を眺めれば、入口から五段上の端に居た成司は見つけやすかったのだろう。視線が合うと口が小さく名を形られた気がして頷きを返した。その動作一つと崩れた顔だけで弟へと言葉は伝わる。  安堵したのか彼も眉間によっていた皺をほどき、むしろ眉を下げて弧の形に目を一瞬だけ伏せる。もう一度膝に手を付けて、深々と頭を下げたのを見守ってから成司は通路を降り、防音扉に手を伸ばす。  緩んだ口元は戻らないが仕方がない。なんたって特別な日だ。
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