第1章

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「ええ。以前にも取材に来たんですけど、そのときさっきの看護師にも話を聞きましてね。完全否定です。それどころか変な噂を流すなと叱られ、院長からは名誉棄損で訴えると言われる始末」 「ああ、だからですか」  俺が看護師を避けた理由が理解できたようだ。 「ちなみに、あなたの弟さんは二十年近くここに、ということですけど、その間に……」 「聞いたことないですね。そんな噂は」  彼は思案顔で首を振って見せた。やはり院長が怒ったように、ただのデマだったのだろうか。この記事を売って久々のギャラを頂こうと思っていたのに当てが外れてしまったようだ。そうなると、興味は目の前の男へと移る。 「ところで、今日は弟さんのお迎えなんですよね?」  そうですと頷く男の表情は晴れやかで、心底安堵している様子だ。 「いい薬ができましてね。おかげでやっと、退院です」 「どのようなご病気だったんですか?」  その質問に対し、彼は躊躇うように息を飲んだ。それに気づき慌てて言葉を付け足す。 「あ、すみません。仕事柄、あれこれ詮索する癖がありまして。言いにくければ結構です」 「いいえ、大丈夫です」  と言ったものの、しばらく彼は逡巡する様子を見せてから、ようやく口を開く。 「心の病ですよ」  おっと、これはデリケートな問題だ。さらに踏み込んで訊いていいものかどうか迷っているうち、彼の方から淡々と語り始めた。 「弟は、いろいろな妄想に憑りつかれていましてね。そのきっかけとなったのが、自らの手で兄を……つまり私を殺したと思い込んでしまったことなんです」 「思い込むと言っても、あなたは生きているわけですよね。それを見ても、妄想は治まらなかったんですか?」  その質問に男は苦笑を浮かべた。 「亡霊になって復讐に来たとでも思っていたのでしょう。私の姿を目にすれば、手を合わせて謝るばかりでした」 「じゃあ、今はもう、あなたを見てもそんなことはしないんだ?」 「ええ。すっかり落ち着きました。妄想も、もう見なくなったようです」  そのまま二人無言で廊下を歩く。しばらくしてからここですと言って男が足を止めた。ドアは開かれたままになっていた。彼は「入るぞ」と声をかけ、内側に張られたカーテンの隙間に姿を消した。その直後、 「あれ?」  少し間を置いてから、 「いない。どこへ行ったんだ……」  その声音は狼狽したような響きだ。 「どうしました?」
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