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序
風流なスズムシの声が耳を楽しませる夜。広大な日本家屋の敷地に裏口から入り込んだ和真は、そろそろと庭を横切って目的とする部屋の縁側の前に立った。わざわざ声をかけずとも、和真の来訪を察した部屋の主がそっと内側から戸を開いて迎えてくれる。さわやかな夜風にふかれて、戸に手をかけている深青の長い黒髪がさらりと揺れた。
「あがれ、和真」
無言で履き物を脱いで上がり込むと、そのまま彼女の部屋に招き入れられる。障子はぴたりと閉ざしておいた。
まだ就寝には早い時間のため、布団は敷かれていない。その代わりに、和真が来ることを見越して座布団が隣り合うようにして二枚用意されている。毎夜のことなので、和真が特に断ることもなく腰を下ろすと、向き合うように深青も腰を落ち着けた。
厳しい母にきっちりと躾けられている深青は、座る所作が楚々として美しい。ここ二、三年の和真は、その姿に密かな熱視線を送っているのだが、深青は気づいていない。
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