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ヒグラシはセミの仲間で、薄暗い時間――主に明け方や夕方に、鳴き声を聴く事が出来る。その声からはどこか悲しい印象も受けるけれど、とても涼しげで、きれいで、おれは大好きだった。
ただ、身体が小さくて、おまけに基本的には木の高い位置に止まっている事が多く、何より逃げ足もはやいので、捕まえるのはかなり難しい。
それを今日、初めて捕まえたというのに、記念の写真を撮る事も出来ず、女のせいで逃げられてしまったのだ。
そう説明すると、女はまた、「ごめんね」と言った。その顔は、今にも泣き出しそうで――おれは、「いや、ええ。ええよ」と頬を掻いた。
「写真を撮れんかったんは、ちいと残念じゃけど……今日が、初めてヒグラシを捕まえられた特別な日って事に変わりはないからのう。
……それにあいつ、どうせ逃がすつもりじゃったし、気にせんでええよ」
「どうして? メスは、鳴かんから、いらんの?」
「いや、オスとかメスとかは関係ない。カブトとかクワとかと違ってな、セミは樹液しか吸わんから飼えんけん。
捕まえたら、大抵すぐに逃がすんじゃ」
「……そうなん?」
「おう。おまけにあいつ、なんや元気なかったし……早く逃がしてやらんとかわいそうな気いがしてのう……」
言っている途中で、おれは口をつぐんだ。虫の事を熱心に、興奮しながら話している自分自身が、なんだか妙に子どもっぽい気がして、急に恥ずかしくなったのだ。
唾をのみ込んでから、わざとらしく大きな咳払いをしてみる。
ちら、と女の顔に目をやると、女はおれの事を馬鹿にするでもなく、ずい、と顔を近づけて、「分かるん?」と訊いてきた。
「……虫の事、虫の気持ち、分かるん?」
「いや、分からん。分からんよ、アホ。そんなん分かるか。
……ただ、反応が悪いとか、動きが鈍いとか、今までいろんな虫見て、触っとるから、その、なんとなあく、分かるだけじゃ。そんくらいじゃ、おれに分かるんは。ただ、それだけじゃ」
自分の顔が、徐々に火照っていくのを感じた。気恥ずかしくなって、いったい何を言っているのか、自分自身、よく分からなくなってくる。
けれど、女の方はそんなおれの事を気にするでもなく、「ふうん」とだけ言った。
顔を背け、そのまま真剣な表情で、ただ、遠くの方を見つめていた。
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