湯船に浸かって

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 うーん、と伸びをして、天井から落ちてくる水滴に、随分と長風呂をしてしまったものだと思う。こんなにゆっくり湯船に浸かったのはいつぶりか、ボンヤリ考える。うちの風呂場に鏡なんてものがあれば、きっと俺のだらしない顔が映っただろう。  とは言え、それも仕方がない。  肩までゆっくり浸かれば、安っぽい入浴剤の匂い。昔は嫌いだったはずなのに、どうにも懐かしく、その分だけ、まだ好きになれた気がした。凝り固まっていた筋肉が、まるで細胞の一つ一つからほぐされていくよう。今にも俺はバラバラになってしまって、この風呂の中に溶けていってしまう。――そんな至福。  最近はシャワーばっかりだったから、この心地良さったらなかった。日本人はやっぱり湯船に入らないといけない。そうは思うけれども、風呂を洗って湯を張って、と言うのはとにかく面倒くさい。それに何より、毎回風呂にお湯を張っていたら、ガス代がスゴイのだ。節約しようとシャワーだけにしたら、二分の一以下になった請求額には、口がふさがらなかった。  ちょっと身体を傾けて、足を延ばせば、たちまち湯船の端から端まで届いてしまって、記憶の中よりも、狭く感じた。ここに、二人だったり三人だったりで浸かっていたのだから、月日の無常さだ。  今だって、耳を澄ませば、 『肩まで浸かって50まで数えるんだ』  そんな得意気な父の声が聞こえてくる気がする。  風呂から上がれば、新しいタオルと、衣服が用意されていた。まるで旅館に来たような至れり尽くせりの待遇に、むず痒さと同時に、申し訳なさを感じてしまう。 「けっこう長風呂だったね」と母が尋ねてきた。 「うん、風呂にゆっくり浸かるのは久しぶりだったからね」 「そう、最近忙しいの?」 「それなりに」 「ちゃんと食べてる?」 「食べてるよ」 「休めてるの?」 「うん」 「今日は泊まってくの?」 「うん」 「わかった」  居間でテレビを見ていた母が、立ち上がると台所の方に向かう。夕飯を取りに行ったのだ。その後ろ姿は、ますます小さくなっているように思えた。  母が戻って来る前に、仏壇の前に座って父に手を合わせた。 「もうちょっと、緩めて頑張ってみるよ」  そうしてまた、この風呂に入りに来ないとな、と思う。
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