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2
どんどん歩幅が、小さくなっていった。歩く速さが、高校2年の男子の速さじゃない。小学2年生だ。
それでも額に、じっとりと汗はにじむ。
さわやかな5月の天気なのに、ブレザーの下は、熱帯雨林並みに湿度が高かった。
雑木林の一本道に入ってから、家に戻ろうかと20回ぐらいは考えた。不健全な生活が長いから、どうしても考え方がネガティブになってしまう。
何とか踏みとどまったのは、今の生活を仕切り直したいからだ。陽の射さない、方向すらわからない樹海から、抜け出すためだ。
ここで逃げては、どんどん乗り越えるハードルが高くなっていく。自力で復活できなくなるかもしれない。
とにかく、考えるより動け。
雪山を歩いているような、重い一歩一歩だけれど、ひたすら前進あるのみ。
なんせ、今しかチャンスはない。
環境を変えればできるはず。
そのために、東京から転校してきたのだ。
軽くこぶしを握って、顔を上げたものの、背後から女性の話し声が聞こえてきて、とっさに、道路の脇にあった小手毬に身を隠した。丸くて白い花だ。
つくづく、小心者の自分が嫌になる。
でも仕方がない。
そもそも制服が違うのだ。
まったく自覚はないが、人を殺しそうなほど暗い目つきの生徒が、登校時間を1時間以上も超えてウロウロしていると、ほかの学校から殴り込みに来たと思われる。
転校早々、警察に通報されては、自力で復活どころか、自滅する。
絶対もう、立ち直れない。
札付きのワルというキャラを演じるのは、三角比の証明問題より難しいのだ。本来の自分でないことぐらい、わかっている。
理想としては、ちょっと陰のある、クールな都会の転校生で通したい。
ゆるいカーブを曲がって自転車が2台、ゆっくりとやってくる。
「ああ、昨日飲み過ぎたわ」
「何、ビール?」
「夜、暑かったやろ?」
「暑かった暑かった。ほんでも、ビールのうまい季節になってきたわ」
ママチャリが、オレの3メートル先を通り過ぎていく。
1台は、タイヤがパンクしているのかと思うくらいにへこんでいた。乗っている女の体重に、タイヤが負けている。
もう1台は、ペダルをこぐたびギーギーと、チャリが悲鳴をあげていた。
自転車が見えなくなると、花の重みで枝が垂れている小手毬をかき分け、オレは道へ戻った。
そして首をひねった。
「この方向、合ってんのか?」
眼鏡をはずして、袖で汚れをふき取った。かけ直して周りを見ると、特別景色が変わったわけでもない。
「・・?」
今の2人は確実に、4、50年前に娘だった年齢。
学校の先生という身なりでもない。近所のスーパーマーケットへ、チラシの目玉商品を買いに行くような格好だ。
道を間違えたのだろうか?
転入試験のため、一度学校に来ている。そのときは、じいちゃんの軽トラックで送ってもらった。
もともと、脳みそをフル回転して覚えるほどの複雑な道順でもない。それに今は、雑木林の一本道。
小学生でも間違えそうにない通学路を、高校2年が迷うのか?
迷うはずがないのに、迷ったのか?
これはもしや、山で経験する人がたまにいるという、リングワンデリングなのだろうか?
グルグルと、同じ場所を回ってしまう不思議な現象。そのループにはまると、ヘタをするば命を落とす。
つい最近、そんな山の不思議を集めた本を読んだせいか、胸のポケットから取り出したスマホを持つ手が、小刻みに震えた。
さっきの生意気なガキに、案内を頼めばよかったか?
道路に戻って地図を確認してみると、確かに津野島高校はこの道の先にある。
そして高校しかない。
行き止まりだ。
スーパーもコンビニもない。でもその場所へ行く、地図に載らない、けもの道のような近道があるのだろうか?
おばちゃんたちはその道を通って、ビールを買いに行った。
そういうことにしておこう。でなければ、高校におばちゃんなんて、大学に小学生がいるのと同じくらい、変だろう。
朝から幻覚を見たとも思えない。
睡眠時間は10時間もとっているし、いくら学校に行くのが嫌で、不登校になっているとはいえ、そこまで精神的に追い込まれてはいないはず。
ふぅ~っと息を吐いた。
目を細めて空を仰ぐと、雑木林の端から太陽が顔を出している。おかげで紺のブレザーが、恐ろしく熱を持ってきた。
念のため、もう一度地図を見る。そしてそれを見ながら足早に歩いた。
陽が射して、明るくなっている道の前方に、高校の看板を見つけると、
「よかった」
胸に手を当て安堵する。
ずる休みをするほど、行きたくなかった学校なのに・・。
袖で額の汗を拭き取りつつ、看板のところまでやって来ると、左右の視界が急に開けた。周囲を見回すと、校門らしきものはない。そのまま進むと、左手にはグランド、右手には3階建ての校舎がある。
生徒用の玄関は、津野島高校と書かれた大きな御影石と、その横に咲く紅いキリシマツツジの植え込みの先にあった。
(いよいよか・・)
ツツジの前で、一旦深呼吸をする。
「よしっ・・!」
こぶしを握って気合いを入れた。
玄関に入ろうとすると、反対側の脇に、犬小屋のようなものが見える。
「ん・・?」
ずり下がった眼鏡を上げて、目をこらした。
大きさといい、形といい、犬小屋以外に思いつかない。
まさかと思って、恐る恐る中腰で近づくと、青いペンキで何か書いてある。達筆とはほど遠い字で、タマの家、夜露死苦と書いてあった。
側面全体に・・。
なんとなく、地下道の落書きをイメージした。
(荒れた学校なのか?)
そういう情報は、入っていないが・・。
犬小屋の正面に、ちゃんと読める字で『守衛室』と書いてある。読める字ではあるけれど、さすがに二度見した。
誰かがいたずらをして、守衛室の看板を、犬小屋に貼り付けたのだろうか。
考えてみれば、犬にタマという名前も、普通におかしくないか?
首を傾げ、そのまま玄関へ入ろうとしたとき、犬小屋から黒い影がヌッと現れた。
「うわっ・・!」
飛び上がった。
タマは、小屋から真っ黒な頭を出した。全身が固まっているオレを、見上げている。お前は誰だと言わんばかりの目つきだった。
お世辞にも、かわいいとは言えない。
初めて見る顔と制服に、警戒したのだろうか? さすが、守衛室と書かれた小屋に入っているだけのことはある。
犬種は何だろう?
そもそも犬自体、チワワと柴犬と、ゴールデンレトリバーしか知らない。
正直、動物は苦手だ。
ペット禁止のマンションに住んでいたから、犬も猫もほとんど触ったことがない。抱っこしたこともない。
幼いころ、動物園に連れて行ってもらったことはあるけれど、かすかに漂ううんこ臭と、けもの臭しか、記憶に残らなかった。
学校に番犬がいること自体奇妙だが、きっと人なつっこい奴なのだろう。頭をなでるぐらいのトライはしてみようと近づいたら、
「ひやっ・・!」
急にタマが起き上がった。
(これはダメだ)
仲良くなれそうにもない。
奴を刺激しないよう、ゆっくりと後へ下がり、玄関に入ろうとした。
その瞬間、まるで狙った獲物を仕留めるような勢いで、タマが飛び出してきた。しかも、リードにつながれていない。
「嘘だろっ」
昨日、ネットで見た動画がよみがえった。ライオンが、ヌーを仕留める映像だ。まさか、首を狙ってくるのか?
無我夢中で走ったが、タマは速かった。そして意外に大きかった。
エサをもらってぶくぶくと、ムダに太っているのかと思いきや、体型がシャープ。ドッグレースの犬と同じ体の絞り具合。
警察犬に追われる犯人の恐怖とは、こういうものなのだろうか?
黒いと余計に怖い。標的を破壊するまで追跡するミサイルのようだ。いともあっさり距離を詰めてくる。
今にも飛びかかってきそうな勢いだったから、オレはとっさにリュックを投げた。
教科書が2、3冊でも入っていればよかったのだけれど、いかんせん軽すぎた。
たいした脅しにもならず、犬はひるみもしない。逆に、闘争心を刺激されたのか、執拗に追いかけてくる。
もう手元に、投げるものはない。逃げるだけで精一杯。
日頃の運動不足がたたって、すぐに息が切れた。助けを呼ぶ声すら出てこない。
転校早々、犬に食い殺されるニュースが頭をよぎった。
猟奇事件だ。
どっぷりと全身から汗を流し、広すぎるグランドを、右へ左へ駆けずり回る。これじゃあ、体育の授業より過酷だ。
グランド脇の草むらに人の姿が見えたから、一目散にそっちへ走った。きっと助けてくれるはずだ。
地面が、固い土から柔らかい草に変わる境目のところで、足がもつれた。草むらの上に倒れると、犬は大ジャンプして、獲物であるオレに覆い被さってくる。
(やられるっ・・!)
と、目をつむった瞬間、顔にベタッと生ぬるい感触。
奴は、ベロベロとなめ回してくる。
これが女子なら大歓迎だが、犬は嫌だ。
怖いやらくすぐったいやらで、のたうち回った。
クスクスと、笑い声が聞こえてきたのはそのときだ。
タマが離れ、ようやく周りを見る余裕が出てくると、オレは見事に囲まれていた。
女子に・・。
何人いるんだろうか?
視界がぼやけている。目を細めた。
ほぼ全員が、オレンジ色のトレーニングウエアを着ていたから、体育の時間なのだろう。
(体育・・だよな?)
みな軍手をして、手に何かを持っている。ホームセンターでしかお目にかかったことのない、そのカーブした刃物は・・、
(か、鎌・・?)
都会からやって来た若者が、閉鎖的な片田舎で村八分となり、鎌で首をかっ斬られた末に、斧で解体されるというホラー小説も読んだばかりだ。
ばあちゃんの、
「最初が肝心やさけ。笑顔笑顔」
という言葉が、むなしく宙を漂う。
笑顔どころか、頬が引きつった。
みんなの視線が、自分に集中している。・・ような気がする。
なんせ、はっきりと見えない。どうして映像が、ピンボケしているのだろう?
みながそろって鎌を握っているから、体が硬直して動かない。
そのうち1人が、いきなり仙太郎の目の前で鎌を振り上げた。
「た、助けてくれっ・・!」
ようやく声を絞り出し、両手を上げて頭をガードしたが、そのとき視界に入ったのは、片方のガラスが割れた眼鏡だった。
女子の1人が差し出してきた。
ホッとすると同時に、急に恥ずかしくなった。
女子に囲まれ、視線を一身に浴びるなんて、今まで一度も経験がない。男子校から移ってきたから、願ってもない状況ではあるけれど、みっともない姿を晒したせいか、瞬殺で自滅した気分だ。
「あれ、タマはどこ?」
セミロングの髪を、2つに結んでいる女子が、みんなに聞く。
たった今、己が追い払った犬がタマじゃねぇのか、と喉から声が出かかったが、
「あれ、ほんとや、どこ? もしかして、また脱走した?」
誰もオレに、大丈夫ですかと聞いてこない。
人間より、お犬様が大事なようだ。
朝から何だよ! と叫びたい気持ちをグッとこらえ、制服に付いた土や草を、ポンポンとはたきながら立ち上がる。
「あれは野良犬。最近よう来るげん。タマのご飯、横取りしていくから・・」
どうでもいいわと思ったが、そんなことは口にできない。
「タマ見んかった?」
オレに聞いてもわかるわけがない。あの黒い奴がタマでないなら、本当のタマはどんな犬なのか、逆に聞きたい。
「あ、そういえば先生言うとった。東京もんが来るって・・」
(東京もん・・?)
田舎人間の、都会に対する劣等感が、その表現に垣間見える。
「職員室は2階。玄関入って、右手の階段上がったらすぐやし・・」
親切に教えてくれたが、聞かなくてもわかっている。
オレはサラサラヘアーを横からかき上げた。ちょっと格好をつけてみたものの、なぜかみなそろって、またクスクスと笑う。
「ウンが付いてよかったね。いいことあるかもよ」
野良犬を追い払ってくれたセミロングの女子が言う。
「は・・?」
小鼻をヒクッと動かすと、うんちの臭いがぷぅんと、己の全身から漂った。
慌てて腹から腕、足へと視線を動かす。ブレザーを脱いで背中を確認すると、草やら土やらうんちやら・・。
「・・」
クソ田舎でクソまみれ。
確実に、うんちでいじられる。
これほどインパクトのある登場の仕方があるだろうか。
陰のあるクールなイケメン転校生で、クラスだけではなく、全校の女子がトキメクという願望が、むなしい妄想に変わった瞬間だ。
「はい」
別の女子が、オレのリュックを差し出した。明らかに、笑いをこらえている口元だ。
「もうちょっとその辺り、刈っとこう」
オレにさほど興味を示すでもなく、みな草刈りに戻っていく。
1人だけ残ったぽっちゃり女子がいて、
「はい」
タオルをくれた。白とピンクのツートンカラー。
「あ・・、え・・」
言葉がうまく出てこない。
「汗がすごいから・・」
タオルは柔軟剤で仕上げたようなふわふわの感触。ほのかに柑橘系の香りがするのは、タオルのせいだと思いたい。
中学から男子校。女子に免疫がまったくないから、普通ならばドキドキして、顔はまともに見ることはできないはずなのだが・・、
「どうも・・」
眼鏡がないから、相手の顔がかすんでいる。
ただ、なんとなく、おかめに見えた。
鼻はブタを連想した。
確実にわかることといえば、恋の始まりには決してならないということだ。
初登校の緊張は消えたけれど、うんちの臭いは消えなかった。
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