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その夜。
加納道久が、役宅を訪ねて来た。
「小岩井由衣之介への、上様からの書状じゃ。小紫を妻に取らせる、と書かれて居る」
差し出す書状には、恐ろしい事に吉宗様の花王が入っていた。
「これは・・」、絶句した。
「お下知である。断れば切腹じゃな」、狸がうそぶいた。
「なお、小紫は儂の養女にいたせとのご命じゃ」つまり。「小紫には加納千代を名乗らせよ」、と言う事らしい。
「これほど複雑に出自を隠せば、もう誰も吉原の花魁であったことを知らぬ。よろしいな、儂の娘じゃぞ」
念を押して帰って行ったのである。
大岡越前は、唯々、吉宗様の配慮の深さに感涙したのだった。
「と言う訳じゃ」
「断れば死罪。ゆめゆめお忘れなきようにな!」
早瀬金吾がダメ押しをするが、其れも由衣之介には半分も聞こえていなかった。
「頼む、小紫。もう一度、儂の嫁になってくれッ」、畳に頭を擦り付け、由衣之介が声を絞り出した。
「許せぬと言うなら、この場で腹を切る」
必死の形相は、もうお江戸の侍の粋な所作ではない。
「千代さん。コイツを如何するよ」
早瀬金吾が呆れた調子で、砕けた言葉を使った。
千代は由衣之介の手を取って微笑むと、そっと囁いた。
「惚れておりまする。この命が欲しいと申されるなら、何時でも差し上げまする」
「それと・・千代とお呼び下さりませ。親が付けてくれた名前です」
由衣之介は千代を引き寄せると、キツク抱きしめた。
「千代」
「千代」と、うわ言のように何度もその名をつぶやいている。
「コホン」、咳払いが二人の侍の口から洩れた。
だが由衣之介の耳には千代の言葉以外、何も聞こえても居なかった。
ー 完 ー
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