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(お江戸の女は恋に生き、愛に生き)
江戸を出て・・
飛騨の地に再び立った。
雪深いこの地には、早くも空から白い雪が舞い落ちて来る。
「爺。江戸に向かったのはずっと昔のように思えるのに、まだ一年も経っては居らぬのだなぁ」、相変わらず側に仕える左衛門が茶を運んで来た。
代官が暮らす高山陣屋には、街を貫いて流れる宮川のせせらぎの音が聞こえる。長閑なひと時である。
山間の鄙びた高山に暮らす町人は、由衣之介の帰参を驚くほど喜んでくれた。手土産を持って、知古が訪れて来る。
「お帰りをお待ちしておりましたぞ。由衣之介様のお元気な様子に、安堵いたしましたわぃ」、その日も山寺の住職が、自慢の地酒をもって訪ねて来た。江戸での噂が、何処からか聞こえているらしい。
「悪い夢を見ていたようじゃ」
今では、遠い江戸の日々が現のこととはとは思えぬ時がある。
人々のかわす穏やかで鄙びた飛騨の言葉を聞いていると、久しぶりに心が和んだ。
陣屋の座敷の障子を開けて、白く雪を頂く山々を仰ぎ見た。もう直ぐまた、一面の銀世界が訪れる時が近づいている。
秋の恵みに溢れる今は、厳しい冬を前にした天の恵みのようなひと時だ。
この頃・・ふと小紫の事を思い出す。
吉原で初めて会った花魁の小紫。
遊女と言う辛い運命を背負って、それでもなお前を向いて懸命に生きていた女。
「わちきは主さまに惚れてありぃす。死ねと言わんしたら、喜んでこの命・・差し出しんす。受け取っておくんなまし」、胸に抱いたあの時、小紫はそう言った。
遊女の甘言、騙されては為らぬと身構えたものだ。
そこで、別の女の顔が浮かんだ。
「右京」、想い出深い女の名だ。
大岡越前が画策した縁談の相手。吉宗様にリストラされた、大奥の御中年寄りだった女だ。
あの吉原騒動を画策し、見事にやり遂せた呆れた女でもある。
「まことに逞しい女子だった」
フッと笑みが出た。
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