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千代田のお城の御池のほとりで。
何時ものお散歩の相手を務めていた大岡越前から、不用意なあくびが出た。此のところ、詰まらぬ訴訟ばかりが増えて、寝不足がたたっていたのだ。
吉宗様が、意地悪くそれを見咎めた。
「余の相手は退屈かッ」
不機嫌なその声に、ハッとした。
拙いゾ。吉宗様はこのところの退屈を、儂を虐めて紛らわす気じゃ。
大慌てで、吉宗様が乗って来るような話題を探した。
「小紫のこの先の身の振り方を想うと、寝つきが悪う御座りまする。お許しを」
それと無く、話をふって見た。
「ウムム。アレは可哀想な事をした」
「今は如何して居る」、と聞いてきた。
喰い付いたな!
「薬種問屋の縁談も断り、小岩井由衣之介を生涯想って暮らすと・・健気な女心でござりまする」
こういう純愛話しを、何よりも吉宗様は好まれる。此処はチョットだけ。お話に捻りを加えよう。
「ところで上様、小岩井由衣之介は如何いたしましょう。今ではスッカリ飛騨国の高山陣屋で田舎武士に戻っておるとか」
「まだ独り身だそうに御座りまする」
「小岩井か、忘れて居ったわ。その様なモノもおったのぉ」、フン!と言う顔をした。
「色白の豆腐侍。たしか右京がそう呼んだのであったな」
あまり興味が無いらしい。
役に立たないものに対しては、酷薄なお方だ。
「アレは飛騨国で飼い殺す」、文句はあるまいと言う目をして睨まれた。
「では・・小紫にくれて遣っては下さりませぬか。さすれば小紫も落ち着き、この越前もゆっくりと眠れまする」
恐るべき癇癪持ちの吉宗様だが、御心は誰よりも優しく懐も深い。
「小紫に豆腐侍をか・・」
思案すること数分。
池の鯉が、ポチャンと跳ねた。
「よいぞ!くれて遣るわ」
機嫌よく、お許しになった吉宗様。
「では、配下の与力に小紫を飛騨国まで送らせまする。御恩情のほど、まことにありがとうござりまする」
芝生に手をついて、深々と平伏したのだった。
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