第四章  *お江戸の娘は負けませぬ*

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 その夜。  加納道久が、役宅を訪ねて来た。  「小岩井由衣之介への、上様からの書状じゃ。小紫を妻に取らせる、と書かれて居る」  差し出す書状には、恐ろしい事に吉宗様の花王が入っていた。  「これは・・」、絶句した。  「お下知である。断れば切腹じゃな」、狸がうそぶいた。  「なお、小紫は儂の養女にいたせとのご命じゃ」つまり。「小紫には加納千代を名乗らせよ」、と言う事らしい。  「これほど複雑に出自を隠せば、もう誰も吉原の花魁であったことを知らぬ。よろしいな、儂の娘じゃぞ」  念を押して帰って行ったのである。  大岡越前は、唯々、吉宗様の配慮の深さに感涙したのだった。  「と言う訳じゃ」  「断れば死罪。ゆめゆめお忘れなきようにな!」  早瀬金吾がダメ押しをするが、其れも由衣之介には半分も聞こえていなかった。  「頼む、小紫。もう一度、儂の嫁になってくれッ」、畳に頭を擦り付け、由衣之介が声を絞り出した。  「許せぬと言うなら、この場で腹を切る」  必死の形相は、もうお江戸の侍の粋な所作ではない。  「千代さん。コイツを如何するよ」  早瀬金吾が呆れた調子で、砕けた言葉を使った。  千代は由衣之介の手を取って微笑むと、そっと囁いた。  「惚れておりまする。この命が欲しいと申されるなら、何時でも差し上げまする」  「それと・・千代とお呼び下さりませ。親が付けてくれた名前です」  由衣之介は千代を引き寄せると、キツク抱きしめた。  「千代」  「千代」と、うわ言のように何度もその名をつぶやいている。  「コホン」、咳払いが二人の侍の口から洩れた。  だが由衣之介の耳には千代の言葉以外、何も聞こえても居なかった。                    ー 完  ー
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