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其の一 (祝言の夜)
1・
町火消しとして初手柄を上げた、左文字組の辰治。
大岡忠相からの褒美は、お吟との婚礼の許しだった。
南町奉行のお裁きと言う、水戸黄門様の印籠の様なお墨付きをもらったと言うのに、いっこうに進まぬ婚礼話しに、辰治の母のお茂は苛立っていた。
「やい、辰治!お前がキッチリとお吟ちゃんを納得させないから、ちっとも嫁に来てくれないじゃ無いか」
お茂としては、お預けを食らったようなもの。
ずっと、我が乳で育てたお吟を息子の嫁に欲しかったお茂だ。
「そうなんだよ。大岡様からも祝言はまだかと、矢のような催促よ」
父の秀治が、苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
今日も大岡越前に呼ばれて、祝言の予定を聞かれたばかりなのである。
吉宗さまから無理難題を押しつけられ、挙句に「一か月に五組の祝言を達成しろ」、と期限とノルマまで切られて切羽詰まった大岡越前は、手近な処から成果を上げるべく、行動を開始したのである。
「先ずは、大奥リストラ娘の一人。八丁堀小町のお吟から片付けるといたそう。何と言ってもお吟には喉から手が出るほどあの娘が欲しがっておる、鳶を束ねる左文字組の跡取り息子、辰治が居るのだからのぉ」
「ふぉっ・ふぉっ・ふぉっ・」、大岡越前の口からバルタン星人のような高笑いが漏れた。
お吟も辰治を想う度に、ポッと頬が染まるほど辰治が好きだ。
燃え盛る火の中から、命懸けで助け出してくれた辰治!
背中に背負った不動明王の彫り物が受け入れられないのも、美代鶴(死んでしまった訳アリの辰治のもと恋人)に悋気してのただの言掛り。他の女の為に彫った刺青が、許せない!
「悋気がちぃと恥ずかしい!」、と思ってはいるが、そこはうぶな乙女心。
スッキリとは割り切れないし、踏ん切りがつかず悩んでいた。
相変わらず隠居所の根岸の寮で、お吟は両親の与左衛門夫婦と暮らしている。
兄の圭吾は静江と祝言を上げて以来、八丁堀の屋敷で熱々な新婚生活を送っているらしく、滅多に顔を出さない。
お吟の事などそっちのけで新婚生活に浸っているから、相談相手にもできない与左衛門だった。
困った与左衛門は、お吟に聞いた。
「お吟や。そろそろのぉ、辰治さんにチャンとお返事せねば為らぬぞ」
もと八丁堀の同心としても、「大岡様のお声掛りを、何時までも無視はできぬ」、と気が気では無い。
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