序章

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 一緒に夕焼けと海を見ていた人が、一体誰なのか、今となっては思い出せない。けれども、僕にとって、その時間が、まるで暖かい空気に包まれているかのような、心地良い時間だったことは確かだ。僕はずっと、その人と、その光景を見ていられるような気がした。  けれども、その心地良い時間が壊れるのも、時間の問題だった。  覚えているのは、母さんの手に引かれている光景だ。あの時の母さんの手は、まるで何かに怯えているかのように、ブルブルと小刻みに震えていた。  母さんは、家の玄関を勢いよく開けた後、僕の手を引いて、どこかへと向かってしまった。後ろを振り返ると、父さんが仁王立ちして、こちらを睨みつけていた。 「あんなに優しかった父さんが、なんであんな怖い顔をしているの?」  当時、僕はそう思っていた。  後で母さんから聞いた話だが、どうやらあの時、父さんと母さんの離婚は成立したらしい。僕が覚えていたのは、ちょうど母さんが、父さんの元から離れる時だったようだ。  幼い僕から見ても、父さんと母さんは、よく喧嘩をしていた。些細なことでも、よく喧嘩をしていた。相性が良くなかったのだろうか。詳しい事は分からないけれども、とにかく僕は、あの日、母さんに連れられて、どこか知らない所へ行くことになった。  僕が家を出る前に、後ろを振り向いた時、仁王立ちをしている父さんの陰に、誰かが隠れていたような気がする。それは多分、僕と一緒に、夕焼けと海を見た人だ。     
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