尊氏の憂鬱

3/10
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/42ページ
 自分が可愛くて、危機となれば自分の側近を切り捨てる側面があって、正中の変で日野資朝(ひの・すけとも)ひとりに責任を押し付けて流罪となったのは記憶にも新しいことだった。  そして、動座して笠置山に籠った今上だったが、城を攻め落とされて逃げるところを掴まえられた。  位を追われた元弘元年、上皇は千種忠顕(ちぐさ・ただあき)と三位局、阿野廉子(あの・かどこ)をお供に警護衆に監視されつつ、隠岐に流された。   しかし、後醍醐天皇は千種忠顕と阿野廉子とともに、船上山で復活の論旨をあげ、伯耆守名和長年(ほうきのかみ・なわ・ながとし)、楠木正成(くすのき・まさしげ)、結城親光(ゆうき・ちかみつ)らを味方につけ、全国の執権に対する不満分子を煽ったのである。  足利高氏(あしかが・たかうじ)もそのひとりとなろうとしていた。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!