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一、
僕が橘先輩と初めて出会ったのは、暑い夏の日だった。嫌になるくらいよく晴れていた木曜日で、僕はそのとき水泳の授業を終えて教室に戻る最中だった。
「あっ……」
ふとした拍子に、抱えていたプールバッグに積んでいた水中ゴーグルのパーツが取れて、ころころと転がっていってしまったのだ。両手が塞がっていた僕は咄嗟に取り上げることもできず、丸いパーツが弧を描きながらドアの隙間の向こうに消えてしまうのを見ているしかなかった。しかも具合の悪いことに、そのドアは女子更衣室のものだったのだ。もちろん更衣室の中からは女の子の声も聞こえた。
僕は更衣室のドアをノックして、誰かにパーツを取ってもらうかどうか悩んだ。しかしそれは壊れたゴーグルの部品だ。恥ずかしい思いまでして――もしかしたらヘンな誤解をされてしまうかもわからない――回収するほどのものでもない。部品が転がっていったのは、僕以外に誰にも見られていないのだし……。僕はそう考えて、部品を無視することにした。どちらにしても新しいゴーグルは必要なのだ。
しかし時間が過ぎていくにつれて、僕の脳裏には不安が渦巻いていった。あの部品を踏んづけて、誰か転んだりしていないだろうか? もし怪我をしたら、あの部品が誰のものなのか捜索されるんじゃないだろうか? もし僕のものだということがばれたら、激しく糾弾されるんじゃないだろうか?
後から考えれば馬鹿馬鹿しいような話だが、僕にはそういう思考の癖があった。一度細かいことが気になり始めると、それ以外のことに頭が回らなくなってしまうのだ。そしてその状態を脱する方法は一つしかない……悩みの種を解決するのだ。
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