3章

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「伊住さん!」 キッチンに駆け寄り、よろよろと身体を起こした伊住を支える。マスクでは隠しきれないほどに赤くなった顔。発熱のせいか潤んだ瞳。おまけに苦しそうに何回も咳までしている。 「風邪だって言ってくれたら、今日は休みにしたのに」 『リリー』の規約にも、担当者が諸事情で訪問できなくなることがあると書かれている。急な予定変更にも柔軟に対応するため、担当者の予定は『リリー』のホームページで確認可能だ。 「朝は微熱、だったので……気合いで、なんとか……」 「気合いでなんとかなる範囲を超えてるよ、完全に」 伊住の肩に腕をまわして立ち上がらせ、仕事部屋と兼用の寝室へと連れて行く。ベッドの上にだらしなく脱ぎ散らかした灰色のスウェット上下を部屋の隅に放り、ぐったりした伊住を寝かせた。 ベッドに横たわる伊住に食欲はあるかと聞いてみたものの、返事はなく、聞こえてきたのは寝息だった。 雨宿りのためにホテルに駆け込んだあの夜。伊住はタオルで縁の身体を拭いてくれただけでなく、風呂も縁よりも後に入っていた。もしかしたら、発熱はそのせいかもしれない。 すでに寝ついた伊住を起こすのも忍びなく『買いものに行ってきます。すぐに戻ります』とメモを残して部屋を出る。 「風邪といったらお粥とか、ゼリーとか……とにかく、消化にいいもの買ってこよう」 伊住が目を覚ますのを待って、お粥とスポーツドリンク、いくつかのゼリー、それから風邪薬を用意した。お粥は電子レンジで温めただけのものだが、伊住はぺろりと平らげてしまった。発熱していても食欲は衰えていないらしい。最悪の状態ではなさそうで、縁はほっと胸を撫で下ろす。 「お仕事中なのにご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありません……」 食事をとって薬を飲んだことで少し体調が戻ったらしい伊住が、心底申し訳なさそうな顔で深々と頭を下げた。 「仕事、仕事って言っても、今日は全然進んでないんだ。だから気にしないでよ」 「もしかして、スランプってやつですか?」 スランプ。たった四文字の言葉がずしりと重く圧しかかってくる。
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